ケータイ辞書JLogosロゴ 生田村(近世)


愛知県>一色町

 江戸期〜明治22年の村名。三河国幡豆【はず】郡のうち。元禄2年碧海郡高取村の勘兵衛が開発を企てたが,翌年の高潮で亡所となり,放置された。宝永3年北の酒手島・松木島・大塚の3か村などの領主だった上総大多喜藩が築立にかかったが,翌年の高潮で大被害を受けた。享保8年再築立が行われ,同10年に完成した。はじめ上総大多喜藩領,享保5年からはその分家の旗本松平氏知行。村高は,「天保郷帳」「旧高旧領」ともに661石余。安政2年水害で49軒のうち6軒が流失。享保12年新田守護神として勧請された鎮守は,祇園天神または牛頭天王社と呼ばれたが,明治維新に生田神社と改名した。浄土宗専修院は嘉永7年の創立。生田講堂(のち憶念寺)は文久年間に千間村の義円が開山し,明治5年まで寺子屋を開いた。東南端の海中に明治15年真野新田が起工され,翌年完成して当村域内となった。海東郡佐依木村の真野理兵衛が干拓したもの。また,明治15年起工,同17年完成の千生新田は,当村と千間村の地先を埋め立てた34haの新田で,西半分が当村域となった。開発者は千間村柴崎泰助ら数名と知多郡乙川村・成岩【ならわ】村・阿久比【あぐい】村,海東郡下田村の5名の記録がある。明治22年の高潮では流失家屋213戸,死者58人の被害にあい,生田講堂に水害碑がある。同年衣崎村の大字となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7354342
最終更新日:2009-03-01




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