ケータイ辞書JLogosロゴ 一色村(近世)


愛知県>春日井市

 江戸期〜明治11年の村名。春日井郡のうち。尾張藩領。水野代官所支配。村高は,「寛文郷帳」41石余,「天保郷帳」44石余,「旧高旧領」87石余。「寛文覚書」によれば,概高60石余,反別は,田9反余・畑5町余,家数33・人数180,馬10,承応2年縄入の新田2石余,寛文2年縄入の新田3石余,松山16町は御留林,百姓居屋敷除地1町余,吉利支丹制札があった。「徇行記」によれば,全村蔵入地,高60石余うち引高4石余で残高55石余,新たに寛延4年縄入の新田3石余が加わる。家数40・人数214,馬6。竹藪が多く御竹役人が置かれ,御留藪が14か所あり,竹役50本結9束30本・20本結1束を納めていた。当村は和泉村とともに木曽路の大井宿へ出る下街道(善光寺街道)の宿場町として繁栄した。寛永14年の史料(伊藤善仁氏蔵)によれば,「坂下新町居屋敷之儀被下候旨御意候間其心得可有候,即打帳を遣申者也」とある。町並みは,南の両側が和泉村,中通りの東側が和泉村,西側が当村,北の両側は当村の町屋で8町余あった。旅籠に下町の藤屋(現存)・近江屋・伊勢屋,中町の万屋,上町の造り酒屋を兼ねた米屋などがあった。伊勢屋は一説に茶屋本陣といわれ,高い門と座敷に上段の間を有し,藩士千村氏(久々利)・山村氏(木曽)の休泊にあてられたともいう。しかし,下街道の通行が盛んになるにつれて,藩の公道である上街道が衰退し,藩は下街道の商品流通を制限する触れを出した。さらに宝暦年間には新街道ができ,駄賃稼ぎの農民にとって打撃であったという。神社は神明社,ほかに源敬様と呼ばれる小社があり,寛永年間藩主徳川義直が鷹狩の際に宿泊した坂下御殿(狩殿)の跡という。寺院は曹洞宗万寿寺。古くは上野村にあったという。明治11年坂下村の一部となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7354392
最終更新日:2009-03-01




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