ケータイ辞書JLogosロゴ 和泉村(近世)


愛知県>春日井市

 江戸期〜明治11年の村名。春日井郡のうち。尾張藩領。水野代官所支配。村高は,「寛文郷帳」「天保郷帳」ともに185石余,「旧高旧領」222石余。「寛文覚書」によれば,本田の概高177石余,反別は,田6町余・畑5町余,概高1石余の新田,寛文2年縄入の新田1石余,同9年縄入の新田2石余,見取新田の田畑2町余,百姓居屋敷除地7反余,家数48・人数188,馬9,井瀬木1か所,雨池2か所。「徇行記」によれば,一円蔵入地,高178石のうち前々引高38石余・五口年数引高2石余で残高136石余,新たに申新田25石余が加わっている,家数70・人数300,馬4。当村は一色村とともに木曽路の大井宿へ出る下街道(善光寺街道)の宿場町として繁栄した。寛永14年の史料(伊藤善仁氏蔵)によれば,「坂下新町居屋敷之儀被下候旨御意候間其心得可有候,即打帳を遣申者也」とある。町並みは,南の両側が当村,中通りの東側が当村,西側が一色村,北の両側は一色村の町屋で8町余あった。旅籠に下町の藤屋(現存)・近江屋・伊勢屋,中町の万屋,上町の造り酒屋を兼ねた米屋などがあった。伊勢屋は一説に茶屋本陣といわれ,高い門と座敷に上段の間を有し,文政5年まで通行を許された千村氏(久々利)・山村氏(木曽)の休泊にあてられたともいう。しかし,下街道の通行が盛んになるにつれて,藩の公道である上街道が衰退し,藩は下街道の商品流通を制限する触れを出した。さらに宝暦年間には新街道ができ,駄賃稼ぎの農民にとって打撃であったという。神社は,神明・八幡・山之神。明治11年坂下村の一部となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7354456
最終更新日:2009-03-01




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