ケータイ辞書JLogosロゴ 市田郷(中世)


愛知県>豊川市

 南北朝期〜戦国期に見える郷名。三河国宝飯【ほい】郡のうち。永徳2年8月22日の源信氏寄進状によれば,「保井郡内市田郷内三名」が額田【ぬかた】郡片寄の天恩寺へ細川一族と思われる信氏によって寄進されている(永源寺文書/岡崎市史6)。天恩寺領であることを確認した応永20年7月10日の管領細川満元奉書には「市田村内三名」とある(同前)。戦国期には牛久保牧野氏の一族四郎左衛門の居城があり(三河国二葉松),連歌師宗長は大永2年の上洛の途次に「八幡近き所,牧野四郎左衛門尉宿所」で泊まっている(宗長手記)。大永3年4月11日に「市田郷檀那」数人が伊知多神社の造築を行っている(伊知多神社棟札/豊川市史中世近世史料編)。永禄4年7月24日松平元康は野田の菅沼定盈に本知20か所を安堵し(譜牒余録/岡崎市史6),ほかに「市駄」を含む新地20か所を与えた(菅沼家譜/旧岡崎市史別巻)。同5年8月6日元康は宝飯郡内21か所1,810貫文の知行地を同族の長沢松平康忠に宛行ったが,その中に「四拾貫文 市田半勢方」が含まれている(譜牒余録/岡崎市史6)。菅沼領と長沢領が混在していたのであろう。天正19年正月20日の上宮寺末寺連判状写に「いちた光空」(上宮寺文書/同前),同年の上宮寺末寺帳に「いちた正珎」などとあるように(同前/新編一宮市史資料編6),市田には上宮寺末の真宗道場があった。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7354511
最終更新日:2009-03-01




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