ケータイ辞書JLogosロゴ 市原村(近世)


愛知県>富山村

江戸期〜明治9年の村名はじめ三河国加茂郡,江戸前期からは設楽【したら】郡のうち天竜川中流右岸に位置し,南東向きの斜面に集落が点在する地名の由来は,「関伝記」によれば,正平元年に田辺国量が開郷した時には「市原,大谷は一村なりしが其後別村となる,元来此村の総名を大谷と称へしが,市原を先立ちて開き,一つの原と成るに依つて市原と云初めたる也」とあり,はじめは大谷村域も含めての開郷であったことがわかる「熊谷家伝記」によれば,天文8年関氏に属した時は100貫の地とあり,近郷で最も高い給知であったと伝える幕府領村高は,「元禄郷帳」「天保郷帳」「旧高旧領」ともに116石余享保3年の書上帳では,反別は9町9反余(すべて畑),戸数41・人数228とある河内村に隣接する久原・山中を枝郷としていた大麦・大豆・小豆を主作とし,焼畑で楮などが作られていた年貢は延宝6年より金納であった信州方面や下流域からの諸物資の出入は,大谷村の天竜川沿いにあった船着き場を使っていた村の最上段の位置に曹洞宗竜谷寺があり,佐太・大谷・河内村をも檀徒としていた「関伝記」によれば,永正2年田辺氏の力によって永休庵が建ち,天正12年竜谷寺となったとある神社は,大谷村にある熊野神社を大谷村とともに祀った明治6年河内・市原・大谷・佐太の4村で竜谷寺を仮校舎として天竜学校を開校同9年富山村の一部となる
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7354546
最終更新日:2009-03-01




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