ケータイ辞書JLogosロゴ 犬山郷(中世)


愛知県>犬山市

 南北朝期〜戦国期に見える郷名。尾張国丹羽郡のうち。犬山荘ともいう。横蔵寺(岐阜県谷汲村)蔵の大般若波羅蜜多経の永和4年2月18日付奥書に「尾州犬山郷之内継鹿尾山」とある(犬山市史史料編3)。また,嘉吉元年11月19日付室町幕府管領施行状によれば,石清水八幡宮大山崎神人の訴えによって「尾張国犬山郷」の左近五郎という者に同宮四月三日日使役の勤務が命じられた(離宮八幡宮文書/同前)。室町期には相国寺林光院領であったが,永享3年に壱万部経料所となったため百姓らが負担に耐えず逃散したという(室町家御内書案下/同前)。「蔭涼軒日録」永享10年12月23日条に「林光院領尾州犬山庄」とあり,当荘荘主職(預所)に嘉都寺が任命された。同書寛正5年11月14日条には「林光院領尾張国。犬山庄。今枝方公事。不用御奉書就于南御所可嘆申之由」とある。荘内の今枝は室町幕府御料所であったが,在地においては林光院方の勢力が拡大し,幕府の公事収取がはかどっていなかったらしく,幕府は寺家奉行松田丹後守・斎藤四郎右衛門尉に林光院に対して厳しい態度で臨ませている。同書長享2年7月5日条所載の林光院領所々目録には「尾張国犬山郷年貢銭,伍百四拾貫文」とある。なお,「大興心宗禅師行状」によれば,心宗禅師悟渓宗頓は「尾陽赤羽郡犬山荘瑞泉精舎」で研鑽を積んだという(続群9下)。荘域は犬山市北西部の犬山地区に推定される。室町期には楞伽寺(のちには東福寺海蔵院)の知行する小弓荘領家職はしばしば「小弓庄内犬山領家職」あるいは単に「犬山領家職」と称され(海蔵院文書/一宮市史資料編6),当郷は小弓荘に含まれたと思われる。郡上郡石徹白の大師堂鰐口の永正15年6月吉日付銘文には「尾州小弓庄犬山郷住人 豊田九郎右衛門」とある(犬山市史史料編3)。下って戦国期,天正12年の小牧・長久手の戦に先立って,同年3月20日付羽柴秀吉書状によれば,秀吉は大坂から自ら美濃に出陣することを池田恒興に報じ,「一水出候者,うちわたり御座有間敷候条,船成次第ニ犬山渡りへ上下之船を可有御寄候」と,犬山の渡し(現在の木曽川にかかるライン大橋付近)に船を徴発して集めることを命じ,当地を与えることを約している(備前池田文書/同前)。これに応えて,同年3月20日には池田恒興が城主中川勘右衛門の留守に乗じて「犬山城其外数ケ所」を攻め落とした(佐竹文書・原富太郎氏所蔵文書/同前)。その後,同年5月2日付羽柴秀吉制札には「一,池田紀伊守犬山在之三千貫余被召置候分,先々作内百姓をも召出,裁許可仕事」とあり,当地は作内(加藤光泰)に宛行われた(池原平十郎氏所蔵文書/同前)。11月15日には秀吉と織田信雄の間に単独講和がなったが,同日付羽柴秀吉判物によれば「一尾口 へい柵犬山町へ」とあり,講和条件として秀吉方は犬山・河田に兵を置き,この2城を除く両軍の新城は破却することとされた。これに従い,尾口城は破却,その道具(へい柵)が犬山へ移された(中村武秀氏所蔵文書/同前)。
解説文を自分にメール
メアド:Milana@docomo.ne.jp

(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7354648
最終更新日:2009-03-01




ケータイ辞書 JLogosトップ