ケータイ辞書JLogosロゴ 犬山村(近世)


愛知県>犬山市

 江戸期〜明治5年の村名。丹羽郡のうち。江戸期は尾張藩付家老成瀬氏の城下町。はじめ尾張藩領,明治元年からは犬山藩領。小牧代官所支配。ただし町方は犬山町奉行成瀬氏が管轄した。村高は,「寛文郷帳」2,244石余,「天保郷帳」2,264石余,「旧高旧領」は薬師寺領・針綱社領・船頭給除地のみを載せ48石余。「寛文覚書」「徇行記」などでは,元高2,190石余・概高3,472石余,ほかに薬師寺領元高17石余・白山社領元高10石余・瑞泉寺領元高54石余・船頭給元高20石余がある。犬山城下は町方と村方からなる。「雑話犬山旧事記」による町方の家数715・人数3,575。「張州府志」による村方の家数400余・人数2,000余。町方は上本町・中本町・下本町・名栗町・鍛冶屋町・練屋町・横町(新町)・魚屋町・熊野町・寺内町・鵜飼町・外町の12町。この12町は地子が免除され,代わりに日役と呼ばれる夫役を勤めた。城下町の地子免許は犬山城主岐阜宰相秀俊の代から始まるとされる(犬山里語記)。これら町方を囲むように外堀が巡らされていた。武家屋敷は堀内外に作られた。それらは北宿・新町・大本町と呼ばれ,また城内では七軒町・三の丸・東谷・西谷にも置かれた。侍長屋は西谷・東谷・大手東・余坂口・鵜飼町坂口・外町木戸口などにあった。木戸は北西端から鵜飼町口・坂下口・外町口・薬師口・寺内町口・余坂口・瓦坂と設けられ,特に外町口・薬師口・余坂口は桝形木戸に拵えてあった。村方は城下廻りとも呼ばれ,「徇行記」は余坂村・中切村・内田村・木の下村の4か村とし,「尾張志」「仮名附帳」は大本町を加えて5か村とし,「地名考」と元文5年の犬山城下絵図は出来町が加わって6か村となっている。外町木戸口・外町・出来町筋の名古屋往還,内田渡・余坂・寺内筋の善師野街道,二符の渡・瓦坂・図師・坂下木戸口・中切筋の巡見街道,薬師口・出来町筋の岩倉街道(柳街道)など,周辺への道路網が犬山城下北宿を始点に整備され,発達した。そのため宿場としての機能も果たした。また木曽川を利用する舟運も鵜飼港を中心に栄えた。犬山惣町代は苗字帯刀が認められ,藩主来城の時には謁見を許され,宗門改は1帳1札ですますことができた。この惣町代には,寛文4年上本町の神戸弥一郎・山内七郎左衛門が初めて勤めた。商取引も町方では盛んで,問屋は一代勤めとされ,諸役免除・城主謁見・能参観が許された。宝暦11年からは問屋給金3両も支給された。問屋には莨問屋・米問屋・菎蒻問屋・竈石問屋・灰問屋・肴問屋などがあった。市は毎月2と7の日に各町順繰りに開かれ,寛文年間〜元禄年間頃が最も盛んであった(雑話犬山旧事記)。天保11年名古屋に要道館,犬山に敬道館が建てられ,明治元年敬道館に合併された。天保12年から家中の手代格以上の子弟が8歳で入館して,読書・習字・作法・武術を学び,15歳で退館した。なお,針綱神社を中心として執行される犬山祭は,寛永12年に始まるとされ,町方各町から山車が出されてにぎわいを見せた。明治5年稲置【いなぎ】村と改称。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7354649
最終更新日:2009-03-01




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