ケータイ辞書JLogosロゴ 井上荘(中世)


愛知県>岩倉市

 室町期〜戦国期に見える荘園名。尾張国丹羽郡のうち。「建内記」正長元年10月記の紙背文書に「尾州井上大円寺領山科方」と記されているのが初見。文明3年10月日付山科家雑掌申状案に「尾張国井上庄領家職〈号山科方〉者,後白河院以来当家旧領也」とあり(山科家礼記文明3年10月3日条),平安末期に山科家領として成立したと考えられる。大円寺は室町将軍の祈祷所で,現在の岩倉市大市場町に所在し,遅くとも南北朝期には当荘地頭職を獲得したものとみられる。正長元年,この地頭職をめぐって相論が起こり,大円寺と関係深い万里小路時房が支証文書を作成し,醍醐寺三宝院満済を訪れ,将軍家への口入を願っている(建内記永享11年2月記裏文書・同正長元年10月記裏文書・同正長元年6月17日条など)。文明3年10月には,当荘領家職が数年来守護被官人の押妨を受けていたため,それを停止するよう,幕府奉行人連署奉書が山科家雑掌・尾張国守護代・井上荘名主沙汰人宛に出された(山科家礼記文明3年10月9日条)。しかし効果はなく,「山科家礼記」文明12年11月15日条に「本所不知行所々」39か所の1つに「一,尾張国井上庄」が挙げられているなど,知行は回復されなかった。戦国期に至り,織田信長は公家の所領を回復させようと,山科家にも記録を調えさせたが,「言継卿記」永禄12年3月3日条によれば「山科家知行分事……一,尾張国井上庄」と見え,「八十年以来不知行」という注記がされている。「信雄分限帳」によれば「一,五拾貫文 井上郷 目くすし 意盛」とあり,天正年間織田家家臣の知行地として宛行われている。当荘は現在の岩倉市井上町を中心とする地域で,井上町から西方の一宮市千秋町佐野辺りに比定されている。なお,一宮市千秋町佐野の養蓮寺に伝わる天正年間の阿弥陀如来尊像裏書に「□(尾)州丹羽□(郡)井上□(庄)」とある(一宮市史資料編6)。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7354658
最終更新日:2009-03-01




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