ケータイ辞書JLogosロゴ 岩津(中世)


愛知県>岡崎市

 室町期から見える地名。三河国額田【ぬかた】郡のうち。応永33年12月13日の若一王子社棟札銘写に大檀那用金(松平泰親)が「巌津」の若一王子社を造立したとある(若一神社所蔵史料/岡崎市史6)。通説では松平氏が松平郷から岩津へ進出したのは3代信光の時で,中根大膳を討って応永28年に岩津に城を築いたとされる(朝野旧聞裒藁)。ほかに一族が配備された7か所(6か所ともいわれる)の砦が造られた。これらを岩津七城と呼び,信光の子親則・光則・信守・長勝・親勝・算則・常蓮が守ったといわれる。岩津七城の推定地として,井ノ城・新城・上ノ城・大膳城・大膳西城・成瀬城・妙心寺城・壇ノ上城・木平屋敷があげられる。以来,西三河平野部に松平氏が勢力を拡張する拠点となった。信光から岩津城を譲られた親長の系統が松平総領家である。文亀元年8月16日の松平一門連判状には16人中6人も「岩津」を名乗る松平一族がおり(大樹寺文書/岡崎市史6),一門の屋敷や居城が密集する城塞景観を想像できる。永正3年に今川氏親が伊勢長氏を派遣して岩津を攻めたこともあって(三河物語など),岩津松平家は衰退した。岩津には信光が宝徳3年に創立した浄土宗信光明寺,信光息親則の菩提所として寛正2年に創立した同宗深草派妙心寺がある。永正16年9月7日の松平信忠寄進状によると,6代信忠は妙心寺へ田畠・寺中寺外などを寄進し諸役を免除している(妙心寺文書/岡崎市史6)。ほかに岩津には堀氏寄進の大樹寺領(大樹寺文書弘治2年正月11日付堀道清・同宗政連署田地寄進状/同前),松平元心寄進の竜渓院領(竜渓院文書天正11年2月日付徳川家康判物/同前)などがあった。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7354800
最終更新日:2009-03-01




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