ケータイ辞書JLogosロゴ 牛久保郷(中世)


愛知県>豊川市

 戦国期に見える郷名。三河国宝飯【ほい】郡のうち。天文3年4月8日の禰宜孫左衛門宛牧野成勝寄進状写に「牛窪郷之内於本所方五貫文之地」を寄進するとある(牛久保八幡社文書/豊川市史中世近世史料編)。もと長山とも一色ともいったらしく,一色刑部少輔時家が関東から来て永享年間に一色城を築いたという(三河国聞書)。文明9年一色氏は家臣波多野全慶に殺され,明応2年牧野成時が全慶を破って城主となった(同前)。大永2年に牧野成勝が一色城を改めて牛窪城と号し,享禄2年に牧野保成が別に長山の岸に牛久保城を築いたという(同前)。この牛久保牧野氏は今橋をはじめ東三河平野部の各地に進出して勢力があった。成時は連歌師宗長と交流があり(宗長手記),一族には風雅の士多く,宗牧も天文13年に「うしくぼ」の迎えに応じて豊川の寺で牧野田三郎と酒宴に興じている(東国紀行/群書18)。天文17年11月15日の牛久保氏神鐘銘に「牛久保郷中大工南鉄屋宗次」とあり(古鐘銘集成),牧野氏の勢力拡大につれて牛久保の呼称は広域化した。その城下は繁栄し,馬市には京・堺をはじめ諸国の商人が集まり,六斎市も開かれた(牛窪記)。今川氏は三河支配の重要拠点として牛久保を重視し,牧野氏を家臣化して牧野氏の支配領域を「牛久保領」として把握した。天文19年10月8日今川義元は財賀寺真如坊に「牛久保領并宇利郷」の白山先達職を安堵し,弘治2年2月18日にも「牛久保領」の新地本地が誰の知行となっても真如院の白山先達は相違ないといっている(財賀寺文書/豊川市史中世近世史料編)。同年2月28・29日に義元は牛久保の若一王子社領・隣松寺領を安堵しているが,これはこの年にあった牧野民部丞の今川氏反逆に伴う措置であった(三川古文書・牛窪記/豊橋市史5)。牧野一族の反今川行為はかえって牛久保に対する今川氏の支配力を強めさせ,牧野氏家臣は解体再編され牛久保領の多くは駿遠の武士や東三河国人の知行地になった。牛久保城には今川の城代が置かれ(勾坂家譜永禄7年5月23日付今川氏真判物写/袋井市史史料編1),今川氏奉行人による裁判も牛久保で行われていた(桜井寺文書弘治3年4月6日付今川義元判物/岡崎市史6)。永禄4年4月11日岡崎勢が牛久保を攻撃しており(槙文書/同前),城米の不足を牧野八太夫・岩瀬雅楽助が500俵調達したのを4月21日氏真が褒賞している(宗堅寺文書/豊橋市史5)。この頃牧野家当主貞成は吉良義昭に招かれて幡豆【はず】郡西尾城にあった。同年4月20日今川氏真は「牛窪本領」のうち野田菅沼氏に扶助していた1,000貫文から長山郷・麻生田村など500貫文を取り上げ,作手【つくで】の奥平定能に宛行った(奥平文書/中津藩史)。このことが理由であろうか,菅沼定盈らの東三河国人の一部は今川氏に背いて松平氏についた。氏真は永禄6年10月28日に牛久保大聖寺領を安堵しているが(大聖寺文書/豊川市史中世近世史料編),この頃から牛久保を今川氏が維持することは困難になり出した。家康は永禄5年8月6日に牛久保領21か所1,810貫文を長沢松平康忠に与え,同7年5月13日には「牛窪けいはうかた」400貫文を含む3,000貫文を戸田重貞に宛行った(譜牒余録/岡崎市史6)。しかし,牧野氏は家臣の結束もあって孤塁を守り,東三河国人の中では最も遅れて永禄9年家康に臣従した(牧野文書同年5月9日付松平家康判物/同前)。この時家康は松平康忠に与えた「牛窪領」のうち,平井など4か所250貫文を「牛窪」へ返還させている(譜牒余録/同前)。天正3年5月17日織田信長は長篠へ赴く途中牛久保に宿泊し,城に家臣丸毛・福田を置いて武田勝頼に決戦を挑んだ(細川家記所収文書/県史別巻,信長公記)。「家忠日記」に遠江牧野原城番を家忠が勤めた時,稲垣・山本らの「牛久保衆」と呼ばれる牧野家臣が饗応にあたっていることが見える(天正7年3月11・12・23日条)。天正18年10月28日吉田城主池田輝政は家臣荒尾平左衛門に牛久保684石7斗5升など6か所で3,000石を知行として与えている(牛窪記/豊橋市史5)。同19年正月20日の上宮寺末寺連判状写に「〈牛久保〉順西」の名があり,上宮寺末の真宗道場があった(上宮寺文書/岡崎市史6)。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7354897
最終更新日:2009-03-01




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