ケータイ辞書JLogosロゴ 内海荘(中世)


愛知県>南知多町

 平安末期〜室町期に見える荘園名。尾張国知多郡のうち。野間内海荘ともいい,康治2年8月19日の太政官牒写には,安楽寿院領14荘園と2末寺末社の内の1つとして「壱処〈字野間内海荘〉在尾張国智多郡内」と見える(安楽寿院古文書/平遺2519)。その成立年代は,保延6年頃かと考えられる。「吾妻鏡」正治2年6月29日条によると,源頼朝の治下にあって梶原景高の妻が「野間内海以下所々」を領したという。嘉元4年6月12日の昭慶門院御領目録には,安楽寿院領として「尾張国野間内海」とあり(竹内文平氏所蔵文書/鎌遺22661),一方,建久2年長講堂領課役注進状案にも「野間内海庄」と見える(島田文書/同前556)。課役の記述が詳細な長講堂領として機能したとの推定がなされている(半田市誌本文篇)。長講堂領として室町期に及び,応永14年3月日の宣陽門院御領目録写に,「年貢絹百三十疋 糸二百二十両」とある(八代恒治氏所蔵文書/大日料7‐8)が,応永20年書写の長講堂領目録写には,「尾張国野間庄 細河中務大輔 同国内海庄 畠山将監入道」と記されており(東山御文庫記録/一宮市史資料編6),応永年間より,2荘に分割されたものか。「蔭涼軒日録」長禄4年9月28日条によると,「大智院領尾州内海荘廻船公事」を一色氏被官人が押妨する事件が起こり,寛正2年9月10日にも再び「大智院領内海庄」の一色被官による違乱が見え,当荘は相国寺大智院領となっていた(大日本仏教全書)。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7354971
最終更新日:2009-03-01




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