ケータイ辞書JLogosロゴ 梅藪(中世)


愛知県>岡崎市

鎌倉期から見える地名三河国額田【ぬかた】郡秦梨子郷のうち正和3年3月28日の粟生敬願譲状写に「額田郡内秦梨子郷并梅藪屋敷給田」と見え(尊経閣文庫所蔵文書/岡崎市史6),敬願(師広)は子息盛広に足利荘寺岡郷内屋敷給田畠とともに譲与した粟生氏は下野国出身の武士で鎌倉中期頃に足利氏被官となり,弘安4年に秦梨子郷の給主に任じられ,嘉元3年には郷司職に補任された(同前)粟生氏が郷支配の拠点としたのが梅藪屋敷給田で,郷の南入口の男川と乙川の合流点を占めていた観応2年8月23日盛広の子為広は子息秋広に秦梨子郷と梅藪屋敷を譲り,以後も長く粟生氏の支配が続いたやはり足利氏の根本被官である小島氏が支配する於為平郷(生平郷)と境を接し,延徳4年8月13日の小島大蔵丞宛松平栄金・同親貞連署知行宛行状写に於為平郷の西境として「駒帰り坂,川通梅藪」と見える(児島好平氏所蔵文書/岡崎市史6)江戸期の茅原沢村の一部で,現在は梅藪前の字名が残る
解説文を自分にメール
メアド:Milana@docomo.ne.jp

(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7355017
最終更新日:2009-03-01




ケータイ辞書 JLogosトップ