ケータイ辞書JLogosロゴ 宇利荘(中世)


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鎌倉期〜戦国期に見える荘園名三河国八名郡のうち鳳来町竹輪日吉神社の暦仁元年棟札に「八名郡宇利之庄内竹谷 大檀那伊福部弘時同子息真弘」とある(八名郡誌)寛元2年2月23日源盛長譲状によれば「参河国宇利本庄」は「吉田故北政所御領」で父刑部大輔長俊から盛長へと伝領されており(九条家文書/鎌遺6278),成立は平安後期と推定される本荘とあるので新荘も併存したはずだが,鎌倉期には見えない南北朝期にはいると,応安6年10月11日後光厳上皇院宣で「生(勝)蓮華院領参川国宇利本庄」が施薬院使某に知行せしめられる一方(尊経閣文庫所蔵文書/大日料6‐38),新荘は康安2年6月27日後光厳天皇綸旨で某(洞院公夏か)に与えられ(西園寺家文書),応安元年には尼光真と洞院公夏の間に所領争いが起きている(柳原家記録/大日料6‐30)新荘は「宇利荘」とも称されており,同6年6月8日,三河守護新田義高被官人の「宇利庄領家職」に対する違乱を停めて洞院公定雑掌に下地を交付するよう命じた幕府引付頭人奉書が出されている(祇園社記続録/同前6‐37)公定は同7年2月17日新荘を京都祇園社の毎月1日,四季大般若・同仁王講料に寄進し(同前),永和3年頃までは同社領(八坂神社記録),のち本荘とともに慈恩庵(京都妙心寺塔頭か)領となった新城【しんしろ】市吉川日吉神社の応永6年3月11日の棟木銘に「上棟一宇 奉再興宇利庄吉川郷大社六所大明神宮 大檀那慈恩院殿〈上使正越書記 田福寺明□(曇カ)本庄御代官河田新左衛門尉将信 新庄御代官八代元光 沙汰人道久 禰宜坂上行長〉」とある(大日料7‐4)この慈恩院を足利直冬とする説があるが誤りである「康正二年造内裏段銭并国役引付」には「四貫五百文……慈恩庵領〈三川国宇利庄段銭〉」とある(群書28)もっとも「蔭涼軒日録」長禄4年12月3日条に「慈恩院領三河国宇利庄」,同8日条には「参河宇利庄,半分者慈恩寺,半分者慈恩庵領之事」とあって,慈恩寺・慈恩院・慈恩庵の関係は判然としないところがあるまた,同書長享元年12月14日条・18日条によれば,当荘は「慈恩寺領三河国爪生庄」とも記されているその後,天文21年11月30日・永禄4年3月7日には「宇利庄冨賀寺領」田地13町が,今川氏から同寺へ安堵されている(冨賀寺文書/豊橋市史5)ところで,荘内には前述のほか吉田郷・宇利郷があった宇利郷については,応永13年12月4日筆写の延命寺蔵大般若経奥書に「三河国八名郡宇利新庄内宇利郷小波田村延命禅寺」とある(八名郡誌)宇利荘の中心で冨賀寺・慈広寺といった古代・中世寺院があり,文明年間以降宇利城主熊谷氏の支配下にあったが,享禄2年松平清康に攻め落とされて以後菅沼氏領とされた永禄4年7月24日松平元康が野田城主菅沼定盈に安堵した本領中に「宇利之郷」がある(譜牒余録/岡崎市史6)この間の天文19年10月8日当郷の白山先達職が今川義元から財賀寺真如坊に安堵されている(財賀寺文書/豊橋市史5)宇利郷は近世の中宇利村・下宇利村・小畑村を含む地域,宇利荘は現新城市南部から鳳来町南部にかけての一帯に比定される
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7355041
最終更新日:2009-03-01




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