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- 大岡郷(古代)とは
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大岡郷(古代) 平安期に見える郷名礪波【となみ】郡のうち「和名抄」に見える礪波郡12郷の1つ刊本に「於保乎加」の訓を付す所在地は不明であるが,「三州志」は近世の糸岡郷内の岡村(現小矢部市岡)を遺称地かとし,「日本地理志料」もこれを受けて,さらに小矢部【おやべ】市の石動【いするぎ】地区にかけての辺りに当郷を比定しているしかし岡村は小矢部市七社【しちしや】を中心とする長岡郷の遺称地である可能性もあり,「越中志徴」はこの説に立って「三州志」を否定している「郷庄考」はやはり同様の見解に立って,正戸【まさど】郷内の岡御所【おかのごしよ】村(現高岡市岡御所)をその遺称地かとする一案を記している一方「地名辞書」は高岡市の立野【たての】・福田六家【ふくだろつか】の辺りに古郷名を欠くとして,あるいはその辺りかとする考えを示している諸説さまざまであるが,いずれもおよそ郡北近くに比定していることが注意される |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
大岡郷(古代) 奈良期~平安期に見える郷名「和名抄」添上郡八郷の1つ高山寺本・東急本ともに訓を欠く天平14年11月15日智識優婆塞等貢進文(正倉院文書/寧遺中)に,「柿本臣大足〈年廿二 大養徳国添上郡大岡郷戸頭柿本臣佐賀志之男〉」と見えるなお寛和3年2月13日大和国大岡中郷刀禰等解(関戸守彦氏所蔵文書/平遺326)には「添上郡大岡中郷」とある「姓氏録」右京諸蕃上に「大崗忌寸」があり,魏文帝の後,安貴公の後裔を称する雄略朝に百済四部の衆を率いて渡来,画才あるにより武烈朝に首姓,天智朝に倭画師の姓を賜った神護景雲3年に至り,居地に依りて「大崗忌寸」に改姓したとある(続紀神護景雲3年5月甲午条)「大和志」は広岡村に比定する現在の天理市櫟本【いちのもと】町付近に比定する説もある... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」