ケータイ辞書JLogosロゴ 大草村(近世)


愛知県>長久手町

江戸期〜明治11年の村名尾張国愛知郡のうち三河山地西部の猿投山塊が尾張平野へ突き出す末端尾根の南麓,香流川上流域村名の由来は,「丈なす大草茫々たる」様子だったことによるという(永見寺由来記)尾張藩領水野代官所支配村高は,「寛文郷帳」296石余,「天保郷帳」304石余,「旧高旧領」361石余「寛文覚書」によれば,概高338石余,田20町余・畑3町余,家数19・人数127,馬11,夫銀,堤銀,御鷹餌犬代米が課せられ,将軍上洛や朝鮮通信使来朝時には人馬を出した「徇行記」によれば,高338石余,うち給人8人の給知323石余,蔵入地15石,村域は東西14町・南北5町,家数64・人数290,馬5寺院は曹洞宗永見寺・真言宗三光院(三光寺)・真宗高田派豊春坊豊春坊は江戸中期に廃寺となり,安永8年に旧跡田畑1反余をめぐって村民と,豊春坊の本寺山口村本泉寺との間に争論が生じ,本尊仏供米として村から毎年2斗9升5合ずつ本泉寺へ納めることで結着した神社は,八幡(能野神社)・山之神能野神社の秋祭には,馬の塔奉納が行われており,その様子を写す「大草馬の塔図絵馬」(天和元年成立)が三光院に伝えられている明治初年三河へ抜ける道沿いに,馬問屋と呼ばれる馬宿ができた明治11年熊張村の一部となる
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7355210
最終更新日:2009-03-01




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