ケータイ辞書JLogosロゴ 大野荘(中世)


愛知県>常滑市

 鎌倉期〜室町期に見える荘園名。尾張国知多郡のうち。大興寺蔵金剛界大日懸仏などの永仁4年11月26日付墨書銘に「尾州知多郡大野庄大福寺之御正体也」とある(知多市誌資料編2)。平安末期には源頼清の一族が当荘と春日部郡朝日荘を本領として蟠踞。頼清は両荘を八条女院に寄進して判官代に任ぜられ,大野判官代と号したというが,承久の乱に際して京方に与したため当荘以下は幕府に収公された(尊卑分脈)。鎌倉末期,正和3年には一色左京大輔道秀が荘内小倉に蓮台寺を創建して影響力を広げ,室町期には当荘は一色氏の知多郡支配の拠点となった。「賢俊日記」貞和2年5月15日条には「若宮御前供養始行 雑用以下大野庄役之内下行云々」とあり,国衙を通じて醍醐寺が雑公事を徴収している(醍醐寺文書/一宮市史資料編6)。当荘領家職は勧修寺家に伝領され,観応2年正月14日付吉田経顕処分帳写によれば「尾張国大野庄」が子息権右中弁経方に処分されている(京都大学文学部所蔵文書/広島県史古代中世資料編5)。一色氏の知多半島の支配は,応仁・文明の乱をもって終了し,戦国期にはその被官ともいわれる佐治氏が大野宮山城を中心に勢力を張った。同氏は明応6年の西之口神明社棟札銘にある「佐治伊賀守為永」をはじめ,その後,駿河守左馬允宗貞,上野守為貞,八郎信方,与九郎一成と続く。大野は伊勢桑名と三河を結ぶ海上交通上の重要な湊であり,佐治氏は大野を拠点に伊勢湾諸所の海賊集団を統御していたと考えられる。連歌師宗牧は「東国紀行」に,伊勢湾を大野へ渡る時,「これより智多の大野のわたり七里となむ……この海にもふたがりとて賊難有とか。警固の侍あまた。同名(佐治)左馬允をのせたれば。おぼつかなからず」と書いている(群書18)。佐治信方は織田信長の妹於大を妻とし,元亀2年長島一揆との戦闘で討死したという。一成の代に佐治氏は没落するが,小牧の陣後,徳川家康に与したため,羽柴秀吉によって所領を没収されたという説と,それ以前,織田信雄の家臣星崎城主岡田長門守が,秀吉に通じたとして,攻められた時,岡田に与した宮山城も落とされたとする両説がある(常滑史話索隠)。天正12年頃の「信雄分限帳」には「八百十貫 大野村 渡辺大膳」とあり,佐治氏の名はすでにない。中世史料に見える荘内の郷村としては,「大野庄内小倉郷」(康富記),「大野庄佐布里」(如意寺鰐口/知多市誌資料編2),「大野庄岡田」「大野庄谷津」(大御堂寺覚禅鈔奥書/同前),「大野荘日永」(日長神社蔵天正9年棟札/同前),「大野庄大草郷」(津島社蔵長享2年棟札/同前)などがある。現在の常滑【とこなめ】市大野町付近から知多市南部一帯にわたる地域を占めた。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7355362
最終更新日:2009-03-01




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