ケータイ辞書JLogosロゴ 岡崎城下(近世)


愛知県>岡崎市

 江戸期の城下名。額田郡のうち。岡崎藩の城下。矢作川・乙川(菅生川)の合流点近くの北岸台地上に位置し,現岡崎市街の中心部。岡崎城はこの台地の南西端に乙川に南面して築城され,城郭の東・北・西に城下町が形成された。岡崎城下は東海道有数の宿場町でもあった。岡崎城はもともとは乙川南岸明大寺の地に城館を構える西郷氏が,15世紀半ばの享徳年間に対岸南西端のこの地に砦を築いたのに始まる。その後,大永4年安城城主から岡崎城主となった松平清康が,享禄3年頃に西郷氏の築いたこの竜頭山砦を拡張して城館を築き,ここを本城とした(岡崎市史)。清康は城域を広げ,大手門近くには市を設け,町家も建てられた。これが連尺町である。しかし,松平氏時代の城下町はこれ以上の発展はなく,城下町としての機能はむしろ近くの矢作宿や菅生の町が果たしていたようである。永禄3年家康が帰城してからは城櫓を修造したり,侍屋敷も建て増されたようであるが,岡崎城下を本格的に整備したのは天正18年に岡崎城主となった田中吉政である。吉政は慶長5年までの在城期間に,城の東・北・西に,後世に田中堀と呼ばれる総延長4.7kmの総堀を掘り巡らして土居を築いた。さらに城西の沼沢地を埋めて,ここに田町・板屋町・松葉町を作り,その西の八町につなげた。城北の削った台地上には肴町や材木町を作って大手先の連尺町につなげた。吉政の城下町建設は,城西の乱流する矢作川の流路を一本化する大築堤工事と同時に進められた。城西の新たに建設された城下町を洪水から守る堤防が必要であったことと,それまで乙川の南岸明大寺の地を通っていた東海道を北岸の新城下町に移転させ,八町の地に接続して矢作川に橋を架けるためであった。吉政は城郭の拡張,城下町の建設,矢作川改修と相次ぐ大工事を行い,近世岡崎城下町の基礎を作った。慶長6年には矢作橋が完成し,東海道が岡崎城下に引き入れられた。しかし,慶長12年に矢作川の大洪水によって八町の町が壊滅したため,同14年城主本多康重は城東台地上に新たな町を建設し,ここに八町の住人とそれまで伝馬役を担っていた菅生川端の榎町の住人を移住させて伝馬町を作った。さらに伝馬町の西に籠田町,東に両町ができて,東海道はその東の投【なぐり】町・欠村に続いた。八町の商人たちのほとんどは伝馬町をはじめとする新たな町に移住したが,八町は東海道往還付きの地であるため板屋町南の福島の百姓26人を移住させ,八町村として再編成させた。正保2年までの本多家時代には,元和3年の天守閣をはじめ白山曲輪・菅生曲輪・菅生川石垣が建設され,城内に通ずる各町口には8か所の木戸が設けられた。次いで岡崎城主となった水野忠善は,正保2年に菅生橋(殿橋)を完成させ,総曲輪に4か所の木戸を増設,籠田町と松葉町には総門を作った。籠田総門は城郭東の出入口,松葉総門は西の出入口で,通行者を改めたのである。同4年,郭内にあった六地蔵町・祐金町・唐沢町を郭外東に移転させたりして近世の岡崎城下町を完成させた。城下町は俗に二十七曲りといわれたように,東海道往還付の町11か町が東から投町・両町・伝馬町,籠田総門を入って総曲輪内の籠田町・連尺町・横町・材木町・下肴町・田町・板屋町と続き,松葉総門を出て松葉町へ通じており,その全長は1里51間。街道の北側に久右衛門小路町・裏町・上肴町・能見町,南側に十王町・祐金町・六地蔵町・唐沢町が続き,城下町廻りは合わせて19か町であった。このうち伝馬役町は伝馬町・連尺町などをはじめとする往還付の11か町で地子免許地,その地子免許地の総坪数は4万8,492坪であった。祐金町・唐沢町など8か町は年貢町であった。しかし,地子免許の伝馬役町といっても屋敷裏や近在に農耕地を持っており,各町ともそれぞれ石高に応じて年貢を収めた。城下には中世からの歴史を持つ総持尼寺・満性寺,松平・徳川家由来の甲山寺・随念寺・大林寺・松応寺・極楽寺,専福寺・誓願寺など朱印寺社が多く散在し,その門前が町家を成して各町に入り組んでおり,城下の様相を複雑にしていた。城主は将軍家の故地であることを憚って寺町を作ることができなかったのである。「岡崎藩万書上」によれば,寛政元年の城下19か町(連尺町・伝馬町・板屋町・田町・下肴町・材木町・籠田町・横町・上肴町・六地蔵町・両町・投町・祐金町・十王町・唐沢町・能見町・裏町・久右衛門小路町・松葉町),家数1,626・人口6,331,総石高1,115石余とある。ただし,これには各寺領門前町の人口や岡崎藩家中の人口は含まれていない。安政5年の岡崎宿戸数調べによれば,本陣3軒・脇本陣3軒・旅籠屋122軒・茶屋17軒・町医師8軒・商家624軒・職人362軒・農家494軒・明家42軒・寺院41か寺・寺領647軒・社領144軒,合わせて2,507軒とあり(旧岡崎市史),寛政元年の家数より800軒以上も多く,いかに寺領門前町の戸数が多いかがわかる。ちなみに明治7年調べの旧岡崎城下町の戸数3,885・人口1万2,802で,これは旧藩士と家族を含めた数字と思われ,近世中期以降の城下の戸数・人口規模はこの程度と推測される。「岡崎藩万書上」によると,商家のうち穀屋68・木綿商売58・荒物屋32・肴屋29・塩屋11など,また職人では鍛冶屋47・煙草同刻屋49・石工19などが目立つ。木綿商売が多いのは周辺一帯が三河木綿の産地であったことによる。伝馬町と田町にある塩座は,当地方と信州方面への販売の独占権を持ち,逆に信州方面から煙草などの山方産物の専売権を持っていたからでもある。鍛冶屋は材木町に集住しており,同町はそのほか大工14人・指物師15人・桶職人15人などが目立つ職人町である。当地の石灯籠・墓石は特産品で,石工の住む裏町は別名石屋町とも呼ばれた(旧岡崎市史・岡崎市史)。明治4年廃藩置県により城下は廃止され,岡崎の名は城下各町を冠称し,その総称として岡崎町と通称されることになった。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7355479
最終更新日:2009-03-01




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