ケータイ辞書JLogosロゴ 岡崎宿(近世)


愛知県>岡崎市

 江戸期の東海道の宿場名。額田郡のうち。東海道・七里街道や矢作川などの水陸交通の要地に設けられ,慶長6年伝馬の制により宿場の機能が整えられた。当初は伝馬ならびに人足の継所は岡崎城下榎町にあったが,寛文年間から連尺町において御状箱御継賄人足問屋并惣町支配のために歩当番所(人足会所)が置かれ,連尺町から選ばれた町年寄3人が町政・継立業務を担当,馬問屋は東は伝馬町,西は材木町に置かれ,問屋役が交代で詰め,宿継ぎなどの業務にあたった。問屋は通常4人であったが幕末には助役を加え6人となった。毎月5日毎に東と西が交替して伝馬を出していた。しかし天保3年歩当番所が焼失し,仮会所で事務を執り,同4年伝馬町に移転,同時に材木町馬問屋も移った。1か所としたために不便が多く,再び3か所にしようとしたが,藤川宿や助郷村々は1か所の時より町歩が増して難渋になると反対が多く,万延元年材木町の馬問屋は廃止のまま,歩当番所は連尺町に復興した。伝馬町西端の南側には御馳走屋敷と呼ばれた町並屋敷があり,主に朝鮮通信使・琉球使節・茶壺通行・勅使などの一行が使用した。当宿の人馬役は100人・100匹だが,寛永14年の天草の乱のおりには407人半となった。しかし負担が大きく,その後正人足は286人,馬も20匹は囲馬とし正馬80匹となり,いずれも伝馬役町11か町で分担した。天保14年には,本陣3・脇本陣3・旅籠屋112,伝馬町馬問屋の役人構成は町年寄3・問屋4・帳付4・肝煎6・馬差6・飛脚役7(旧岡崎市史・岡崎市史)。明治21年の東海道線施設に対し,当宿の旅籠屋・飛脚問屋や三州中馬・矢作川舟運の運輸業者などが反対運動を展開,以後交通の不便を強いられた。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7355480
最終更新日:2009-03-01




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