ケータイ辞書JLogosロゴ 小河(中世)


愛知県>安城市

 戦国期に見える地名。碧海郡のうち。明応2年11月日付弘済寺領注文に「五貫六百文……小河四郎五郎方」とある(大樹寺文書/岡崎市史6)。天文18年4月7日付本證寺門徒連判状に「小河」として石川四郎三郎信成をはじめとして,石川一族やそのほか10人ほどが名を連ねている(本證寺文書/同前)。ここに連名した石川一族は小河城主石川政康につらなる者であろう。戦国期には三河石川一族が支える小川城と本願寺道場(のちの蓮泉寺),内藤一族が支える姫ケ城と本願寺道場(のちの誓願寺)ができる。蓮泉寺の寺伝では文安3年石川政康が蓮如の指示で下野国から来て,城と寺を開き,城はやがて安祥城の松平親忠に従ったというが,実際には政康は代々この土地にいて成長してきた在地領主であろう(桜井の歴史)。小川城の石川一族からは清兼・家成・数正など岡崎松平の家老職を勤める部将を輩出。姫ケ城は姫ノ城ともいい,内藤弥次右衛門家長嫡男喜一郎信成の城といい(三河国二葉松),家長・信成一族はともに大名家を開く。永禄6年三河一向一揆が起きると,石川一族などは岡崎城下に居住する上級武士は松平家康側,小川に居住の一族などは寺側に立って,相分かれて戦った。寺側の総大将本證寺空誓の身代わりとなって倒れた桜井円光寺順正の墓は加美古墳の上に現存する。永禄9年5月25日付石川家成坪付注文に「小川」とある(大樹寺文書/同前)。さらに,年月日未詳の古井百姓中申状では「小川」がせめくることを大樹寺に訴えている(同前)。また,年未詳正月12日付小河吉明書状(本證寺文書/同前)などから,一向宗門徒が多数いたと思われる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7355504
最終更新日:2009-03-01




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