ケータイ辞書JLogosロゴ 奥村(中世)


愛知県>一宮市

 鎌倉期〜戦国期に見える村名。尾張国中島郡のうち。興郷・興村とも見える。当村には御厨が存在し,建久3年8月日の二所太神宮神領注進状写に,「尾張国……奥村御厨〈内〉給主同宮一禰宜成長 件御厨,去治暦年中建立,往古神領也」とあり,伊勢内宮領で供祭物上分米10石などを課せられている(神宮雑書/一宮市史資料編補遺2)。「神鳳鈔」にも,「尾張国……〈□宮〉奥村御厨〈上分十石〉」と記されている。元応2年4月3日の中島承念譲状案には,「一所 興郷 荒野」と見える(妙興寺文書/同前資料編5)。応永6年の尾張国国衙正税未進注文に,「壱貫文 奥村未進〈稲庭知行〉」とある(醍醐寺文書/同前6)。年未詳10月2日の尾張国国衙荘当知行分注文には「一,おく村 一所 すやま備中」と記されており,年月日未詳の尾張国国衙領内福阿分注文にも「おく村 拾貫 すやま備中」,同じく年月日未詳の尾張国国衙領注文に「おく村 拾貫文〈是者正税〉」と見える(同前)。永享9年10月28日の真正名坪付注文に,「一反 同六百文 奥村堺」とある(大徳寺文書/一宮市史資料編6)。「康正二年造内裏段銭并国役引付」には,「壱貫五百卅二文……日野前大納言家御領〈尾州奥村段銭〉」と見える(群書28)。文明16年11月1日の如光弟子帳に,「奥 一箇所 同(専称坊)末」と記されており,当村に上宮寺下専称坊(正福寺)の末道場があったことがわかる(上宮寺文書/一宮市史資料編6)。由緒書に文明17年11月29日とある阿弥陀如来絵像裏書写に,「瀬辺七門徒尾州中島郡内籠郷奥邑 了泉寺 願主釈了明」と見え,永正15年3月18日の年記をもつ阿弥陀如来絵像裏書には,「世辺七門徒了妙□尾□(州)中島郡笑笙庄内籠□□□(郷奥村カ)」と記されており,当村は笑笙荘内籠郷の内にあった(了泉寺史料/同前)。大永4年11月15日の年記をもつ阿弥陀如来絵像裏書には「中島郡奥村」とあり(浄流寺文書/同前),天文4年3月14日の年記をもつ阿弥陀如来絵像裏書に,「尾張国中島郡興村郷瀬辺西宝寺常住物也」と記されている(西宝寺史料/同前)。永禄5年8月1日の年記をもつ貴船神明社の棟札に「願主奥村総氏子中」とあり,年未詳9月29日の年記をもつ同棟札に「尾州中島郡奥村保神明御社壱宇」と見える(貴船神明社史料/同前)。天正12年と思われる5月7日の織田信雄書状に,「おきの城兵粮玉薬何かに付候て可被拘間」とあり,竹鼻城主不破広綱に奥城へ兵粮玉薬などを補給せよと命じている(不破文書/同前)。しかし同9日の毛利輝元宛羽柴秀吉書状には「其外城中者一人も不漏刎首候条,奥城取巻候」とあって,5月9日には奥城が落とされている(古文書集/同前)。天正19年の上宮寺末寺帳には,「一おくむら」とある(上宮寺文書/同前)。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7355538
最終更新日:2009-03-01




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