ケータイ辞書JLogosロゴ 小弓荘(中世)


愛知県>犬山市

 平安末期〜戦国期に見える荘園名。丹羽郡のうち。「良峰氏系図」によれば,正暦年間に良峰季光の舎弟小弓大夫惟光が所領を御堂関白藤原道長を本家と仰いで寄進して成立したという(続群7上)。良峰氏は代々丹羽郡司を勤め,尾張の在庁官人ともなった名族であるが,先祖の良峰玄理が尾張に流罪となり,赦免されぬまま死去したので,道長はその子孫からの所領寄進は憚るとして,良峰姓を橘姓に改めさせたと伝える。保元年間には尾張国司が保元新制(荘園整理令)を楯にとって「小弓御庄開発方」の停廃を企てたが,本家ではこれを不服として朝廷に訴えている(京大所蔵兵範記裏文書/平遺4755・4756)。また,この頃,丹波守任なる者が山名荘入野の地を「小弓庄加納」と称して牢籠したともいう(仁和寺文書/同前4985)。鎌倉期以降は近衛家領として相伝され,建長5年10月21日付近衛家所領目録には請所のうちに当荘も掲げられている(近衛家文書/鎌遺7631)。鎌倉前期には大内惟義が当荘地頭であったらしいが,荘内の溝口神田畠・入鹿迫などの地をめぐって本家と相論,非法に及んだため,百姓は逃亡した(醍醐寺所蔵諸尊道場観集紙背文書/醍醐寺文化財研究所研究紀要6)。南北朝期,観応2年に土岐頼康が尾張守護に着任すると,土岐一族の美濃から尾張丹羽郡への進出が始まり,荘園侵略が行われた。文和2年9月には後光厳上皇から「尾張国小弓庄土岐高山伊賀守濫妨」を停止するよう綸旨が出された。その後,当荘は近衛道嗣から楞伽寺に寄進され,至徳2年12月5日付足利義満御教書によれば将軍義満は当荘などを楞伽寺領として安堵した。室町期の応永年間以降は楞伽寺の知行する小弓荘領家職は「小弓庄内犬山領家職」と記されるようになった。南北朝期以降,在地情勢の変化や守護方武士の荘園侵略により,領家の支配の及ぶ範囲が犬山付近に限られてきたことを示すものと思われる。文明12年11月30日付足利義政御教書では将軍義政は東福寺塔頭海蔵院に「尾張国犬山領家職」を安堵している。これ以前に当荘領家職は楞伽寺から海蔵院へと移行していたのであるが,小弓荘の名は消え,単に「犬山領家職」と記されている(海蔵院文書/一宮市史資料編6)。なお,戦国期の永正15年6月吉日付の郡上郡石徹白の大師堂鰐口陰刻銘に「尾州小弓庄犬山郷住人 豊田九郎右衛門」とある(犬山市史史料編3)。当荘は現在の犬山市を含む旧丹羽郡内に存在したとされるが,その荘域は未詳。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7355740
最終更新日:2009-03-01




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