ケータイ辞書JLogosロゴ 下津(中世)


愛知県>稲沢市

 鎌倉期から見える地名。尾張国中島郡のうち。折津・折戸とも書く。「おりど」とも訓む。黒田から萱津に至る鎌倉街道の宿。「関東往還記」弘長2年2月10日条に「於同(尾張)国折戸宿中食」とあり,西大寺叡尊が関東下向の途次,当地で食事している(西大寺叡尊伝記集成)。建治3年10月には阿仏尼が「おはりの国おりどゝいふむまや」を経て熱田【あつた】社に参詣(いさよひの日記/群書18),弘安3年11月には飛鳥井雅有が「をりとゝいふ宿」を過ぎて萱津に向かっている(春能深山路/続群18下)。室町期には永享4年に将軍足利義教が富士遊覧の際に宿泊した(覧富士記/群書18)。宿の発達とともに市も開かれ,弘安年間成立の「沙石集」巻8に「下津ノ市」が見える。正和3年には「下津五日市」の地頭代が東寺領大成荘に乱入したという(東寺百合文書の/稲沢市史資料編7)。交通の要地を占めたため,古来,しばしば戦場ともなった。源平合戦の際,養和元年3月墨俣川で敗北した源行家が下津宿に陣を取ったといい(源平盛衰記巻27),承久の乱で京方に付いた尾張国の武士右馬允明長は杭瀬川合戦で負傷,本国へ落ち延びようとしたが「下津河水」が増していたため果たせず,捕縛されたという(沙石集巻2)。この下津川は現在の青木川ないし五条川を指す。建武2年8月16日,足利尊氏は北条時行討伐に下向の際,下津宿を通過(国会図書館所蔵文書/大日料6‐7),同5年2月には「下津」で北畠顕家軍と合戦に及んだ(竜造寺文書・岡本文書・深堀文書など/同前6‐4)。応永年間の尾張国国衙領注文などによれば「おりつ下町屋」「おりつ 市保」などと見えて,市町の発展が知られる(醍醐寺文書/稲沢市史資料編7)。また守護所があり,応永年間には守護又代官織田常竹が在住したが(妙興寺文書/一宮市史資料編5),文明8年11月13日犬山城主織田敏定により焼き払われた(和漢合符/大日料8‐9)。当地には鎌倉末期から室町期にかけて伊勢内宮領下津御厨もあった(神鳳鈔,享徳庁宣注文/一宮市史補遺2)。また正眼寺(正眼寺文書/東春日井郡誌)・住吉薬師堂(妙興寺文書/一宮市史資料編5)・阿弥陀寺(阿弥陀寺文書/稲沢市史資料編7)などの寺院があった。天正2年正月6月織田信長は木村弥左衛門分「下津・松原両所」を岩室小十蔵に宛行った(美作古簡集/同前)。同11年正月24日織田信雄は安土発向を明日に控えて清須留守居の奉行衆に簗田彦四郎・守山孫十郎を責任者として当地などに検地を実施するよう命じた(生駒家文書/同前)。同13年頃には信雄家臣雑賀松庵の知行地1,000貫があった(信雄分限帳)。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7355747
最終更新日:2009-03-01




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