ケータイ辞書JLogosロゴ 御馬村(近世)


愛知県>御津町

 江戸期〜明治22年の村名。宝飯郡のうち。はじめ幕府領,元禄11年旗本京極氏知行,宝永4年再び幕府領,正徳5年幕府領と5人の旗本の相給支配(村高517石のうち幕府領16石余,残りは旗本曲淵景衡,間部詮之と間部詮衡の兄弟,村上正国と村上正直の兄弟の計5人で各100石余ずつ)となった。この相給はその後天明元年まで続くが,この間,幕府領16石余は享保11年岡崎藩領,宝暦13年幕府領,明和7年吉田藩領,安永元年遠江相良藩領となった。天明2年全村が幕府領となったが,享和3年からは以前の幕府領と5旗本の相給に戻った。村高は,「寛永高附」485石余,「元禄郷帳」545石余,「天保郷帳」「旧高旧領」ともに517石余。東海道赤坂宿の助郷村。寛政4年の戸数199・人数877。牛頭天王社があり,明治元年引馬神社となる。社伝によると,正暦年間京都八坂神社の神霊を勧請,天文20年には今川義元が先例によって5町8反歩余を寄進したという。祭礼の時の笹踊りは鎌倉期から伝わる神事といわれ,七福神踊りは近世後期漁業の発達を祈念して始まったという。寺院は臨済宗本光寺・海元寺,浄土宗浄願寺・浄楽寺,真宗入覚寺・敬円寺がある。音羽川河口に御馬湊が開かれており,三河五か湊の1つに指定されたのは寛永12年であった。以後,幕府領・旗本領の年貢米の積出港としてにぎわいをみせた。湊の規模は小さく,渡辺・鈴木の2軒の廻米問屋があり,沖合いに停泊した大浜・平坂・高浜などの廻船に湊から艀で年貢米を積み込んだ。また,津波や水害の被害も多く,なかでも寛永13年・正徳元年・天保7年の被害は深刻であった。村内は東郷と西郷とに分かれ,両者は祭礼そのほかでたびたび対立し,また,幕末には村方騒動も起こっている。明治8年御馬学校開校。同9年の戸数197・人口866。同18年の農務統計事項報告書では,普通農産物の占める割合は68.8%,特有農地物は31.3%で,後者では藍・実綿がその中心である。村民の多くは農業に従事し,漁業を専業とする者は同20年の男子501人のうち50人余,船40艘余であった。同22年市制町村制施行による御馬村となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7355768
最終更新日:2009-03-01




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