ケータイ辞書JLogosロゴ 加家村(近世)


愛知県>東海市

江戸期〜明治9年の村名尾張国知多郡のうち掛村とも書いた知多半島基部,伊勢湾に面する丘陵地地名の由来は,海岸辺りの丘陵が崩壊して崖をなすことからとも,平安末期に源義朝が尾張国野間で殺された時,渋谷金王丸が主君義朝を殺した野間の庄官長田忠致を追って馬を駆った地であることからとも伝える(張州雑志)「万葉集」巻14の「味鴨の可家の湊に入る潮のこてたずくもか入りて寝まくも」の可家をこの周辺に比定する説もある尾張藩領鳴海代官所支配熱田神宮の加藤図書助領で,文政年間に開発された北・中・南新田は蔵入地村高は,「寛文郷帳」「天保郷帳」ともに155石,「旧高旧領」155石余「寛文覚書」によれば,本田元高155石,反別は15町余(田4町余・畑11町余),新田の元高は3斗余,反別は畑方7畝余,家数51・人数312,牛馬12伊勢桑名への舟路は7里元禄4年頃の船舶は13艘・98石(知多郡史)また,この地でとれる「掛土」は,壁土として名古屋方面の家屋に用いられた寺は江戸期の儒学者細井平洲が幼時に勉学した真言宗観音寺と,曹洞宗慈眼寺平洲が著した「如来山記」の如来山は当地にある丘陵のことで,如来山人の別号もこれによる社は,大明神・天王・山ノ神の3社があり(寛文覚書),大明神が現八柱神社と考えられる八柱神社には平洲寄進の灯籠がある明治3年の人数679同9年荒尾村の一部となる
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7355838
最終更新日:2009-03-01




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