ケータイ辞書JLogosロゴ 形原(中世)


愛知県>蒲郡市

 南北朝期から見える地名。宝飯郡のうち。「尊卑分脈」清和源氏義光の子武田冠者義清の子に方原二郎師光があり,「三川国方原下司」とある。12世紀前半頃の人と思われるが,詳細は不明。松平信光の四男与副がここに住して形原松平氏を称し,貞副―親忠―家広―家忠―家信と続いた。文亀元年8月16日の松平一門連判状に「形原左近将監貞光」が見えるが(大樹寺文書/岡崎市史6),系譜上の位置は明らかでない。形原城を拠点として周辺に支配を及ぼし,代々浄土宗光忠寺を菩提寺とした。形原松平氏の一族が大樹寺や光忠寺へ土地を売却している(大樹寺文書天文3年12月19日片原三郎さへもん・同孫五郎連署田地売券,永禄3年12月29日松平貞広下地売券/同前)。今川氏治下の弘治3年7月23日の今川義元判物によると,額田【ぬかた】郡蓬生の小島正重が形原与力として陣番を勤めている(児島好平氏所蔵文書/同前)。今川氏の影響力が排除され永禄5年に上郷城の鵜殿氏が松平元康に服した後は,形原松平家の本拠地として安定した。天正11年7月日の御岳神社棟札に「三川国宝飯郡形原郷御笠蔵王権現……大檀那松平又七」とある(神社を中心としたる宝飯郡史)。「家忠日記」天正11年4月27日条に祝言のため家忠が「かたのハら」へ出むいたとあるのをはじめとして,形原松平氏の動静をうかがえる記事が散見する。天正16年11月28日には形原の松平但馬の所で月次連歌が催され,家忠はこれに会してその夜は城に泊まった。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7355929
最終更新日:2009-03-01




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