ケータイ辞書JLogosロゴ 形原村(近世)


愛知県>蒲郡市

 江戸期〜明治22年の村名。宝飯郡のうち。慶長6年旗本松平家信(形原松平氏)知行,元和4年同氏が大名となり形原藩領,同5年旗本松平庄右衛門清直知行,延宝元年幕府領,同8年松平内匠頭乗親知行,正徳2年幕府領,享保3年旗本壺井氏知行,同9年からは旗本巨勢至信・旗本竹本正綱・旗本筧正舗の3給地。松平家信家,松平清直家,松平乗親家,巨勢家は,それぞれ当村に陣屋を置いた。松平家信家は,いわゆる十八松平の1つとして形原松平氏と呼ばれ,家信は,天正18年小田原陣に参戦し,上総五井5,000石を領し,慶長6年本貫地である当地に移り,元和4年安房で5,000石を加増されて1万石となり,形原藩を立藩。しかし,翌5年摂津高槻に移封した。この旧形原藩領の宝飯郡12か村(当時萩村は宝飯郡)と幡豆【はず】郡逆川村の5,000石を知行したのが松平庄右衛門清直家(長沢松平氏)で,交替寄合として参勤交代を行い大名なみの家格を有した。慶安4年清須が跡を継いだ時に弟親明に上之郷村・萩村と柏原村の一部の700石を分与し,4,700石となったが,延宝元年嗣なく断絶した。松平乗親家は,大給【おぎゆう】松平氏の一族で,正保3年加茂郡足助にて3,000石の旗本となり,寛文9年駿河国に移されて5,000石を知行していたもので,延宝8年当地に移ったが,正徳2年一族内の不和により所領を上知された。巨勢家は,長沢村に陣屋を置く5,000石旗本と当村に陣屋を置く5,000石旗本の2系統があり,前者が本家で,後者は分家。この分家の巨勢氏は,享保3年紀州藩士から1,000石の旗本となり,同9年1,000石を加増され,同17年さらに3,000石を加増されて5,000石となった。天明2年以降の知行地は宝飯郡10か村・額田郡2か村・碧海郡3か村で構成された(蒲郡市誌)。村高は,慶長6年に1,129石余,「寛永高附」1,290石余,「元禄郷帳」1,551石余,「天保郷帳」1,596石余,「旧高旧領」では1,594石余および形原新田22石余とある。延享3年の公儀巡見使に提出した史料によれば,巨勢知行分は本田畑827石余・新田畑高31石余の計859石余,家数264,竹本知行分は本田畑504石余・新田畑43石余の計547石余,家数171,筧知行分は本田畑152石余・新田畑24石余の計177石余,家数32で,総高1,583石余,総家数467,総人口2,508,馬数32疋,小物成として舟年貢1石余,塩浜高8石余,寺院は浄土宗真如寺・利生院・長福寺実相院・光明院,真宗東本願寺派妙厳寺・専称寺・林光寺,神社は形原大明神,形原蔵王権現,形原天満宮,形原羽栗天王,形原大宝殿があった(村明細帳)。塩田は寛永年間に4反程度が北淀尻にあった(塩浜争論文書)。天明年間頃には南新田・下市場・市場にも塩田が成立し,文久3年では南新田に53筆,下市場に12筆,北淀尻に4筆の塩田がある(絵図・地籍図)。文久3年には70〜80隻の小漁船を所有し,5艘の船役を領主より命じられていた(日記)。明治22年形原村の大字となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7355930
最終更新日:2009-03-01




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