ケータイ辞書JLogosロゴ 萱津(中世)


愛知県>甚目寺町

 鎌倉期から見える地名。尾張国愛知郡・海東郡のうち。「吾妻鏡」には文治2年4月1日条以降しばしば「萱津宿」として記され,将軍源頼朝・藤原頼経・宗尊親王らの京・鎌倉往還の際の宿泊地となっており,建長2年12月13日条には「萱津駅」も見える。また「海道記」の筆者も当地に宿し,貞応2年4月7日条に「幽月影あらはれて,旅店もしづまりぬれば,草の枕をしめて萱津にとまりぬ」と記している(群書18)。その繁栄ぶりは,「東関紀行」仁治3年8月13日条に,「かやつの東宿の前を過れは,そこらの人集りて,里も響くはかりに罵りあへり,けふは市の日になむ当りたるとそいふなる」と記されている(大日料5‐17)。鎌倉後期には東海道の宿としてよく知られる所となり,「宴曲集」巻第4海道上に「茅茨やきらぬ萱津の軒」とうたわれたのをはじめ(古典大系),「源平盛衰記」や「とはずがたり」にも記述がある。嘉暦2年成立と推定される尾張国富田荘絵図には,「萱律宿」として五条川に比定される川の西岸を南北に走る街道の両側に光明寺他の家並みが連なるさまが描かれている(円覚寺文書/神奈川県史資料編2付録)。絵図の光明寺は,寛永12年にその多くを焼失した時宗の寺で,「徇行記」などに一遍の開基とする伝承を伝えている。正安元年成立の「一遍聖絵」に,弘安6年甚目寺で行法中の一遍を助けるべく,同寺の毘沙門天が萱津の「徳人」2人の夢に現れたと伝える(続群9上)。遊女も住しており,建久4年の「六百番歌合」に,「寄遊女恋」と題して有家の「萱津の原」を読み込んだ歌があり,「春能深山路」は,作者飛鳥井雅有が弘安3年11月当地で遊女のもとに宿し寝過ごして翌朝の出立が遅れたさまを記している(続群18下)。建長元年6月22日平資康貢物送文によれば,「進上 萱津宿御雑事等」として平資康が米・麦・糠・苅草・薪・菜・酒・肴・大瓶を送付したことが知られるが(中山法華経寺所蔵双紙要文39裏文書/鎌遺7087),その事情は詳らかでない。室町期になると,北野社一切経のうち,応永19年の年紀のもとに「尾州愛智郡萱津堀江之談議所」あるいは「尾州愛智郡萱津堀江郷定光院」の住侶が記した旨の奥書を有するものがある(大日料7‐16)。これによれば,現五条川の東岸の堀江も当時は萱津と称していたと考えられ,「東関紀行」の「かやつの東宿」は,五条川の東岸地域にあたると推定される。法印尭孝の「覧富士記」によると永享4年将軍足利義教の富士遊覧に随侍し「おり津の御とまり〈たるゐより十里〉,かいつなど過ぎて熱田のみやの神前にまうでて」と記している(群書18)。また,「経覚私要鈔」応仁2年末条の「自京都至鎌倉宿次第」にも萱津に「カイツ」と仮名がふられており(大日料8‐2),室町期以降,かいつとも称したことがわかる。円通寺阿弥陀如来絵像裏書に,延徳元年8月28日付で「尾州海東郡萱津甚目寺庄円通寺願主西善」とある。円通寺は,本願寺末寺として「証如上人日記」天文6年5月日条に「尾州萱津円通寺」とあるほか,同日記に散見される寺である(石山本願寺日記)。また当地は天文20年に織田信長が清須の織田信友を破った萱津合戦の場ともなった。中世の萱津の地は五条川を挟んで西岸の海東郡(現甚目寺【じもくじ】町)の部分と,東岸の愛知郡(現西春日井郡新川町)の部分とから成るが,近世には海東郡の上萱津村・中萱津村・下萱津村がその遺称地となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7356285
最終更新日:2009-03-01




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