ケータイ辞書JLogosロゴ 賀野御厨(中世)


愛知県>尾西市

鎌倉期〜戦国期に見える御厨名尾張国中島郡のうち弘安7年閏4月晦日付浄胤寄進状に「中島郡北条賀野御厨土取郷」とある性海寺の中興2世浄胤は師岩蔵上人の恩徳に報いるため愛染明王像を建立,性海寺領当御厨土取郷内荒野のうちから1町2反を分割し,その勤行料所として甚目寺に寄進したこの荒野は東で笶生【のぶ】御厨と接していたという(性海寺文書/稲沢市史資料編7)貞治6年12月荒尾泰隆報恩(妙興)寺に当御厨内飯柄郷を寄進している(妙興寺文書/大日料6‐28)土取【どとり】郷(岐阜県羽島市正木町三ツ柳土取を含み尾西市北西部に及ぶ地域か)と飯柄郷(羽島市竹鼻町飯柄)があったことから,当御厨は現在の尾西市北西部から現木曽川右岸の羽島市に及んでいたと思われるなお,嘉禎元年真清田社領注文に「加野」(久我家文書/鎌遺4883),正安2年頃と推定される熱田社領新別納郷等注文案に「賀野西浦永」(猿投神社文書/同前19837),弘安5年7月日付尾張国千代氏荘坪付注進状案に「同(中島郡)北条蚊屋里」とあるが(醍醐寺文書/稲沢市史資料編7),いずれも当御厨に関連するものであろう室町期の文安4年には「賀野東方」は山下将監入道浄秀の知行地であり,内宮役夫工米反銭は京済が認められていた(康富記文安4年9月20・23日条)宝徳3年山下辰法師は知行地「東賀野」公田1町5反分の反銭を在地で徴収されたが,実際には7町であることがわかったため,残り分は京済とし在地での催促を停止する折紙を在京守護代織田氏から得たという(同前宝徳3年10月20日条)「康正二年造内裏段銭并国役引付」にも「山下孫三郎殿〈尾州賀野東方段銭〉」とある(群書28)
解説文を自分にメール
メアド:Milana@docomo.ne.jp

(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7356288
最終更新日:2009-03-01




ケータイ辞書 JLogosトップ