ケータイ辞書JLogosロゴ 苅安賀村(近世)


愛知県>一宮市

 江戸期〜明治22年の村名。中島郡のうち。尾張藩領。北方代官所支配。村高は,「寛文郷帳」「天保郷帳」ともに1,729石余,「旧高旧領」2,753石余。「寛文覚書」によれば,概高2,701石余,田42町余・畑105町余,古城新田の概高34石余,古川新田の概高3石余,寛文2年の新田高2石余,明暦2年新田の概高1石余,寛文9年新田の高4石余,家数348・人数1,541,馬39。全村蔵入地。近世初期の苅安賀廃城により城下町の機能を失うとともに,当村は六斎市を中心とした周辺農村の商業的中核として生きのびていったと思われる。「蓬州旧勝録」は東市場町・橋向町・本町・北市場町・若宮町・花井町・富田町など城下の頃の町名で,江戸期に残った町名をあげている(一宮市史本文編上)。「地方古義」によれば,市は六斎市と2月1日〜15日,8月15日〜晦日までの日市が開かれることを記している。これらは享保13年と同15年に願いによって許可されたもので,同時に御国見世物・狂言・操芝居なども許可されている。弥五左衛門庄屋記録によれば,宝暦4年に市で売り出していた物として,ろくろ・木履・古機具・檜物類・附木・綿車・ひしゃく・つるべ・はし・桶・檜笠・たんす・長持・あやへ板などがある(同前資料編補遺2)。当村には頭百姓と呼ばれ藩から苗字帯刀を許された家が何軒かあった。なかでも関戸家は漢方薬の製造と販売や質屋業で財をなし,大地主に成長している。また同家の可卜を中心に漢詩・俳諧などを作る文人グループがあった。可卜は和歌を香川宣阿に,俳句を沢露川に学び,儒学・国学を修め,近隣の人々を指導。蓮照寺境内には門人の建てた句碑がある。木村蓬莱は可卜に兄事,12歳で江戸に出て荻生徂徠に師事,帰郷後門人を指導。朝野三輪は病の夫に貞節をつくしたことをもって細井平洲に見出され,藩主から賞せられたが,可卜に俳句を学び作品を残した。ほかに関戸経忠・同角露・井上八雷・舟橋木旦らがおり,苅安賀七老と称せられた。文政12年村方騒動が起こった。小作料の減免をめぐり小作側と地主側が対立,北方代官所役人の事情聴取は小作人側に好意的で,地主側の大幅な譲歩によって小作料減免に成功,一人の処罰者も出すことがなかったという(一宮市史本文編上)。寺院は,曹洞宗常清寺,真言宗観音寺,日蓮宗国照寺・蓮照寺・妙栄寺・心証寺(のち一宮市大宮に移転),浄土宗誓願寺・養種院・鎮西寺,真宗大谷派専徳寺・安浄寺・正福寺・了伝坊・専養寺。なお,養種院・安浄寺・了伝坊はのち廃寺となったと思われる。ほかに浄土宗の庵寺浄閑院がある。神社は,八幡神社・熊野神社,ほかに天神・大神宮・神明社2・富士浅間の諸社が,寺々の守護神としてあったが,現在は前記2社に合祀されている。明治22年市制町村制施行による苅安賀村となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7356311
最終更新日:2009-03-01




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