ケータイ辞書JLogosロゴ 北方村(近世)


愛知県>一宮市

 江戸期〜明治22年の村名。葉栗郡のうち。尾張藩領。北方代官所支配。村高は,「寛文郷帳」1,426石余,「天保郷帳」1,430石余,「旧高旧領」2,096石余。「寛文覚書」によると本田の概高は2,030石余,田62町余・畑78町余,寛文2年縄入の新田6石余,なお,伊勢田として20石余があり,米10石余を定納として御師に出していた。ほかにも里小牧村の船頭給として28石余があり,米18石余を定納として里小牧村へ出した。家数234・人数1,239,馬55,寺3,堂2,社4,桶杁1。用水は宮田用水を光明寺村から枝井したもので長さ2,568間ある。船26(鵜飼船大小合わせて21,役船5)でつなぎ役銭を北方村番所へ納める。岐阜街道27間の道作り人足を出す。年貢米は船で廻送。「尾張名所図会」に当村名物として筏鮠を記す。これは鮠を煮かため生姜などを加え檜の曲物や箱に入れたもので諸人が美味と賞讃したという。天保12年の村絵図では高2,030石余のうち175石余が蔵入地,残りは鏡島七郎左衛門ら39人の給知,ほかに7石余の蔵入新田,1町余の見取の蔵入地があった。弘化5年の尾州濃州紺屋惣帳には建次・弥平・惣助3人の名が記され(名古屋叢書11),当村の産業の一端がうかがわれる。「寛文覚書」には北方村役所という名が多く使われ,当村には早くから木曽川の流木や通行の船を改める川並奉行などが置かれていたが,享保12年に同奉行は廃止された。しかし,いわゆる天明の改革によって所付代官設置策がとられ,当村のように従来から藩主滞在用の御殿があって,しばしば奉行が置かれた土地に,所付の役人を設け,一円支配を命じ,以後村への命令伝達は所付代官を通す形で一元化されたという。当村には北方代官所が置かれた(一宮市史本文編上)。寛文年間のキリシタン弾圧時,当村および近辺の村々で多くのキリシタンが捕えられ,笠松の柳原で数十人が打首になったという。近藤太郎氏蔵の正徳元年切支丹宗門出村付帳にも当村の名が記されている。神社は,泉屋大明神社・青塚大明神社・青ふすま大明神社・畑下大明神社,ほかに社なしの神明。寺院は,臨済宗高徳寺,真宗大谷派妙性寺・宝行寺,ほかに庚申堂・大日堂。明治22年北方村の大字となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7356499
最終更新日:2009-03-01




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