ケータイ辞書JLogosロゴ 北熊村(近世)


愛知県>長久手町

江戸期〜明治11年の村名尾張国愛知郡のうち尾張平野の東縁,三河山地の西端に位置する地名の熊はかつての村名熊村によるとも(長久手村誌),隈の借字で曲がりうねった地形を意味するともいう(地名考)尾張藩領水野代官所支配村高は,「寛文郷帳」「天保郷帳」ともに339石余,「旧高旧領」372石余「寛文覚書」によれば,概高365石余,田27町余・畑2町余,見取畑3反余,家数27・人数178,馬9,夫銀・堤銀・御鷹餌犬代米が課せられ,将軍上洛や朝鮮使節来朝時には人馬を出した「徇行記」によれば,本田概高365石余,うち碓氷清八郎ら10人の給知355石余,蔵入地9石余,家数74・人数298,馬4集落は北島・中島・東島の3瀬戸に分かれ,平地部は香流・神明2川の水利を利用して水田が作られ,中を井道(溝)と呼ばれる用排水路が縦横に走っていた丘陵部は浅い岩盤と急斜面に阻まれ,新田畑の開墾は容易でなかった三河との交流が盛んで,村の北と南から2本の三河道が延びていた三河と尾張の分水嶺に達する潮(汐)見坂からは,南に三河湾,西に鳴海の海が遠望できたという当村の侠客近藤実左衛門は,村内外の子分約50名を集めて集義隊を結成し,鳥羽・伏見の戦に参戦した神社は,神明社・山神社,ほかに大懸貴祠・三狐神があったが廃社神明社の秋祭には馬の塔を繰り出し,神社に駆け登るオマントの習俗がある寺院は,真宗高田派宗延寺(宗円坊),ほかに大日堂・観音堂・薬師堂があった明治11年熊張村の一部となる
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7356515
最終更新日:2009-03-01




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