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呉服町(近世) 江戸期~明治22年の町名 |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
呉服町(近世) 江戸期~明治5年の町名江戸期は大坂三郷北組のうち大坂へ移住して来た山城国伏見の町人のうち呉服商人は伏見呉服町を形成,のち同町が伏見町・呉服町に二分され成立した(船場)なお「初発言上候帳面写」(大阪市史5)によればもとは瓢箪町と称したという「宝暦町鑑」には,「西よこぼりごふくばしより一丁東の丁伏見町通と云」とある元禄13年の大坂三郷水帳寄せ帳によると,家数54軒,役数67,うち無役数2(年寄・会所),年寄は平野屋与右衛門呉服商の集住する町で,諸織物の仕事物や洗張業,湯熨業などが見られたまた当町の商家はそれぞれ異なる色のれんをかかげており,「呉服町の五色のれん」といわれた町内西横堀にある呉服橋は,享保初年に架けられたが,寛政4年当町の呉服商墨屋作兵衛の遺産をもって架けかえるとの遺言により架け替えられ,明治期まで存続したという明治2年大阪東大組に所属同5年伏見町1~5丁目となる... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
呉服町(近世) 江戸期の町名松山城下の町名の1つ城下の北西に位置する元禄期の記事を載せた「松山町鑑」では古町30町の1つで,同7年の町鑑では本家31軒・借屋50軒,新町組に属した元禄年間頃の城下町図に町名が見え,府中町の東側に並行した通りである北は木屋町に連続しているので,のちに木屋町に併合されたものか現在の木屋町1~2丁目あたり... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」