ケータイ辞書JLogosロゴ 坂左右村(近世)


愛知県>岡崎市

 江戸期〜明治22年の村名。寛永年間は三河国額田【ぬかた】郡,のち碧海郡のうち。岡崎藩領。和田12郷の1つ。村高は,「寛永高附」490石,「元禄郷帳」505石余,「天保郷帳」「旧高旧領」ともに508石余。慶安2年の検地では,田278石余・23町余,畑226石余・19町余。「岡崎藩万書上」では,寛政元年の人数254。「三州岡崎管内記」によれば,山方手永に属し,享和年間の収納定俵754俵余,上納竹小竹10束。東海道藤川宿の代助郷村で,寛政年間の勤高174石,明治元年同岡崎宿の助郷村となり,同2年の岡崎伝馬所騒動に参加。万延元年の御用達名前記には,藩御用達商人地廻帯刀として都筑幸次郎・小林重吉が見える。天保年間,庄屋榊原弥兵衛が藩に村民救済を訴えて聞き届けられたが,のち村追放に処された。寺社は,真宗大谷派西運寺・薬師堂・地蔵堂・神明社。明治15年の戸数65・人口297,耕宅地51町余・山林原野3反余(岡崎市史)。同22年占部村の大字となる。
解説文を自分にメール
メアド:Milana@docomo.ne.jp

(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7357323
最終更新日:2009-03-01




ケータイ辞書 JLogosトップ