ケータイ辞書JLogosロゴ 甚目寺荘(中世)


愛知県>甚目寺町

 鎌倉期〜南北朝期に見える荘園名。尾張国海東郡のうち。弘安5年7月日の尾張国千代氏荘坪付注進状案に「同(中島郡南条)甚目寺大門末七反」と見え,当地を含む国衙領が浄金剛院領千世氏荘として荘号を申請している(醍醐寺文書/一宮市史資料編6)。元応2年7月29日関東御教書案に,「尾張国甚目寺庄事」とある。同史料と連券の甚目寺荘相伝系図によれば,当荘はもと勧修寺僧正房成宝の所領で,熱田宮女菅原氏女を経て藤王女と道恵へ伝えられ,その後藤原光泰息女吉祥女に譲られている。その後,先の御教書案によれば,惟宗氏女代成宝と光泰息男光継の雑掌行円との間で当荘をめぐる相論があったが,幕府は双方の主張を容れず,当荘を吉祥女領と裁定した。この相論の背景には,相論の当事者がそれぞれに当時分立していた朝廷の両統に頼り,各々院宣を得ていたという事情があった。元亨3年2月13日と正中2年3月13日に出された後醍醐天皇綸旨案は,先の幕府の裁定を受けて,ともに吉祥女領として当荘を領掌すべしとしている。ところが,嘉暦元年には勧修寺が綸旨を受けたため,吉祥女から譲り受けた源淳は建武元年10月綸旨の不当性を建武政府に訴え,安堵を請うたが(勧修寺文書/大日料6‐2),建武3年9月17日光厳上皇院宣(案)をもって「尾張国甚目寺」は勧修寺僧正に安堵された(同前/同前6‐3)。その後,文和3年11月3日法眼憲清書状によれば,「甚目寺庄御沙汰事」につき相論があったことが知られ,「上下条庄務職」の知行が治部卿法橋御房に安堵されており,当荘が上下の条からなっていたことがわかる(甚目寺文書/甚目寺町史)。応永9年5月28日尾張国目代(光守)注進状によると,国衙領のうち守護方からの違乱をうけた所領として「甚目寺大門 海東中切給人」と見え,海東郡内の斯波義重の被官人により分割知行されていたことが知られる(醍醐寺文書/一宮市史資料編6)。下って天正11年9月10日の曽我兵庫等書状では当荘内甚目寺の寺領として当地内30町を安堵しており,また同18年9月3日の田中吉政書状も甚目寺に対し,当地内200貫文の知行を約している(甚目寺文書/甚目寺町史)。「信雄分限帳」には「甚目寺」と見える。現在の甚目寺町甚目寺を中心とする地域に比定される。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7357704
最終更新日:2009-03-01




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