ケータイ辞書JLogosロゴ 甚目寺村(近世)


愛知県>甚目寺町

 江戸期〜明治22年の村名。海東郡のうち。はじめ尾張藩領,明治初年からは尾張藩と犬山藩の相給。清洲代官所支配。村高は,「寛文郷帳」「天保郷帳」ともに1,539石余,「旧高旧領」1,862石余。「寛文覚書」によれば,概高は本田1,563石余・新田13石余,ほかに観音領300石余があり,反別103町余(田49町余・畑54町余),家数140・人数625,馬37。大通行時には清洲・万場・神守の各宿へ,また御茶壺通行の時には万場・神守の各宿へ人馬を出した。道のりは,万場へ1里10町,神守へ2里,清洲へ1里。夫銀・堤銀・御鷹餌犬代米・御役竹などを納めたが,ただし寺領分は夫銀を負担しなかった。「徇行記」によれば,新田・観音領以外の概高はすべて成瀬隼人正ほか8名の給知で,戸数192・人数782,馬6。村の東の入口には商家・旅館が建ち,農家は南の方に集まっていた。また南東に枝郷市場があった。寺院は真言宗甚目寺。境内には本堂のほか釈迦堂・三重宝塔・十王堂などが建てられていた。ほかに真宗大谷派円周寺。神社は5社。明治5年義校日新館が開設され,同6年涵養学校,同9年甚目寺学校と改称。同21年現在地へ校舎を新築・移転した。同22年甚目寺村の大字となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7357705
最終更新日:2009-03-01




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