ケータイ辞書JLogosロゴ 高木村(中世)


愛知県>扶桑町

 鎌倉後期〜室町期に見える村名。尾張国丹羽郡のうち。弘安5年7月日付尾張国千代氏荘坪付注進状案に「丹羽郡西条高木村四丁三反半」とある(醍醐寺文書/一宮市史資料編6)。これは国衙領千世氏名田畠が京都の浄金剛院領千世氏荘として立券された際のもので,当村に名田畠19町4反余の一部があったことを示す。南北朝期の文和2年の妙興寺領坪付注文には中島新蔵人寄進分として「一所 七段 高木屋敷 同(丹羽郡内)」とある。妙興寺は貞和4年に中島氏の一族滅宗宗興によって創建された臨済宗の寺院。応安2年8月の公役納法下地等目安注文によれば,国衙方として「〈光禄外題目六内〉一所七反三百歩 高木田〈丹羽郡一丁内〉七百五十文」「〈光禄外題内〉一所二丁八反 高木〈丹羽郡国重内〉二貫八百文」,また,一宮方(真清田社領)として「一所七反 高木〈丹羽郡左近引〉一貫四百文」「〈光禄外題内〉一所三反 高木田〈一丁内〉卅二文」とある。光禄外題とは尾張守護土岐頼康の安堵の判を受けた寺領目録である。妙興寺領は近隣の国人・土豪層からの寄進・買得によって徐々に形成されてきたので,個々の所領によって寺家の支配内容は異なるが,当村内においても国衙方(醍醐寺三宝院)と一宮方の田地があったことが知られる。嘉慶2年8月13日付妙興寺領坪付注文には中島正介寄進分として「一所参町捌段 高木村内〈丹羽郡庶子板倉分〉」とあり,また,室町期の文安元年8月25日付寺領坪付注文にも同様の記載がある(妙興寺文書/一宮市史資料編5)。国人中島氏一族は在庁官人の出自で,国衙周辺に所領があり,惣領は代々正介を称した。上記の寺領坪付注文では庶子の寄進分も合わせて惣領正介寄進分としていると考えられ,当村は中島氏の惣領制と所領支配の基盤となった地域の1つであった。
解説文を自分にメール
メアド:Milana@docomo.ne.jp

(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7358434
最終更新日:2009-03-01




ケータイ辞書 JLogosトップ