ケータイ辞書JLogosロゴ 竹谷荘(中世)


愛知県>蒲郡市

 鎌倉期に見える荘園名。三河国宝飯【ほい】郡のうち。熊野山領。「吾妻鏡」文治元年2月19日条に「竹谷庄」と見える。隣接する蒲形荘とともに開発領主は藤原俊成で,久安元年から同5年まで三河守を歴任した時に権利を得て開発を企てたのであろう。その後俊成は両荘を熊野山へ寄進し,別当湛快がこれを領掌していたが,行快僧都の妻で後に平忠度に嫁した娘に譲ったため平家没官領として源頼朝が拝領した。湛快女子は頼朝縁者である前夫行快を頼んで愁訴したので,頼朝はこの日両荘を熊野山領と認めた。両荘は行快の子孫が領有するようになったが,その後は不明。下って,戦国期に入り,「天文日記」天文20年12月23日条に「就当番之儀,勝万寺下〈竹谷円西〉樽持参」と見え,勝鬘寺末の真宗道場があった(石山本願寺日記上)。いわゆる竹谷松平氏の本拠地で,松平信光の長男守家より始まり守親・親善・清善・清宗・家清と代々竹谷に住し,曹洞宗天桂院を菩提寺とした。4代清善の時,今川氏に服していたが義元の死後今川氏に背き,松平元康に属して異父兄の上郷城主鵜殿長照攻撃に戦功があった。「家忠日記」天正5年12月27日条に「竹谷松平備後守所へ借銭ニ人をつかハし候」とあるのをはじめとして,同日記には深溝【ふこうず】松平家と竹谷松平家の連歌や贈答を通じた交流を示す記事が多く出る。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7358598
最終更新日:2009-03-01




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