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- 茶屋町(近世)とは
「茶屋町(近世)」の関連ワード⇒ 赤田組(近世) 飯詰組(近世) 石浜村(近世)
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![]() | 茶屋町(近世) 江戸期~明治20年の町名江戸期には地籍上安濃【あの】郡下部田村に属していたが,津城下に接しているため次第に町場化し,事実上は津城下町の1町として扱われた塔世茶屋町ともいう安濃川下流の左岸低地に伊勢街道に沿って位置する地名は,茶屋があったことに由来する戸口は,天和元年42軒(津市史),寛延年間10軒・65人(宗国史)安永初年の茶屋は3~4軒(阿漕雲雀)四天王寺の門前町として発達し,元禄6年の津町間数調査によると,町の長さ126間5尺(津市史)延宝6年出火して,部田村との境の10軒を焼失寛政5年~文化7年に道路沿いに71本の桜が植えられる寛政8年の百姓一揆時には,参加者に朝食の炊き出しが行われている(岩立茨)宝永3年,抜け参りの旅人を宿泊させないようにという通達がだされ,また寛政12年にも旅人の宿泊を禁じる通達がでている文久元年報恩寺で藩は施粥を行い,慶応2年には福満寺で138人に施粥,165人に米の廉売を行った(岡安定日記)塔世橋は,元禄8年・延宝6年・享和2年に洪水で流される寺院に曹洞宗永平寺派四天王寺があり,聖徳太子の創建と伝えられる明暦2年,藤堂高次によって寺領100石が寄進される(三国地誌)明治4年安濃津【あのつ】県,同5年三重県に所属同6年塔世学校が四天王寺に開校同10年西南の役では2名が戦死同17年の戸数91同20年栄町と改称 |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 茶屋町(近世) 江戸期の府内城下の町名町組府内町を構成する30町のうちの1つ府内庄屋支配に属す府内城の西にあり,北は堀川町,南は白銀【しろがね】町,東は魚町,西は田町に接する貞享元年の「万覚」によれば,当町の東頬37間・西頬37間・道幅3間・東西の入15間,白銀町堺の道幅2間明治8年まで府内町,同22年まで大分町に所属同年以降大分町大字大分の字名・通称地名として存続昭和20年7月16日夜および8月10日の米軍空襲により焼土となる同38年6月1日新住居表示直前は,茶屋町は字名・通称地名とも使用されておらず,荷揚西に含まれている表示後は大分市都町2丁目の一部となる... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 茶屋町(近世) 江戸期~明治4年の町名熱田【あつた】の1町須賀浦に属す寛永10年~承応3年にかけて築出された熱田3か浦の1つ須賀浦内の町堀川下流七里の渡船場の北にあたる(張府細見図)町の長さ40間半,幅は2間2尺(徇行記)現在神戸【ごうど】町七里の渡し場跡に再建され市民に親しまれている湊常夜灯は,「初灯台在聖徳太子堂西畔磯辺」とあるように往来する船の便のために建てられたものだが,浦が築出された承応3年に築地町に移築(同前)当地は尾張藩の船奉行支配地であったが,文化10年熱田奉行支配地に組み入れられた(同前)明治4年大瀬子町の一部となる(愛知郡誌)... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 茶屋町(近世) 江戸期~明治初年の町名相川の1町で,上相川十六町のうち相川之図(佐渡志)によれば,町並みは東西に続き,東は相川町・外記町に通じる元禄7年検地帳では畑屋敷2反余,屋敷数は南側13・北側4,名請人に三光院・妙音寺・万宝院が見える相川町々書上によれば,鉱山の最盛期に坂に茶屋を建て商う者が多かったことに由来するといい,町屋敷2反余・畑5畝余文政9年墨引帳ではほとんどが空地明治初年上相川町の一部となる... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」