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伝馬町(近世~近代) 江戸期~現在の町名「てんまちょう」ともいう江戸期は宇都宮城下町の1町(宇都宮市史)「宇都宮史」によれば,もとは池上町の一部であったが,元和5年本多正純が大手入口を江野町へ移すにともない,池上町東方にあった問屋場を池上町西側に移転し,分けて伝馬町としたのが当町の起源である(同前)問屋場であるため,伝馬が常に集散していたところからこの名がついた問屋場の近辺は宇都宮で最もにぎやかな場所であった各藩の使者が宇都宮藩を来訪したときに面会する対面場があり,これは御逢場【おあいば】といわれ,郷村から出てきた人々の面会所にも用いられた江戸初期から地子免許元文年間町方書上帳によれば,名主上野七兵衛・平右善兵衛,本陣小林善右衛門,町並みは東西長さ1町54間・道幅4間半,町家は南側12軒・北側11軒,うち本家36軒・小割家36軒・木戸2か所・番所2か所・高札場1か所・半鐘1か所,ほかに会所坊寺院として真言宗密蔵院があり,町高は261石余(県史近世1)明和8年町方書上帳には,家数45軒,この坪数1,304坪と見える(宇都宮市史)天保10年五人組改帳によれば人数248,うち家持190・借屋58(県史近世2)江戸から奥州にいたる本通りに位置し,西に新石町,東に池上町と接した南側には鼠穴口があり,大手門前の広小路と通じたまた町西端には日光街道口があった交通の要地であり,寛政年間の諸職人諸商人留によれば,旅籠屋15・小間物屋4・肴屋4・造酒屋3・足袋屋1・材木屋1・薬種屋1・仕立屋1・八百屋1・木綿屋1・鉄物屋1と見え,にぎわいを見せていたことがわかる(宇都宮市史)また,当町や池上町の旅籠屋には飯売女を抱える者が多かった寛政8年宇都宮宿役馬町割覚によれば,石町組に属し,馬4疋を負担する(県史近世2)明治22年宇都宮町,同29年からは宇都宮市の町名大正14年の世帯85,人口488昭和39年住居表示実施により一部が泉町・小幡1丁目となり,江野町・池上町・新石町・材木町・一条町・二条町・三条町・四条町の各一部を編入現在,当町北縁にあたる大谷街道(大通り)沿いは金融機関・ホテルなどのたち並ぶビル街となっており,南縁にあたるユニオン通り沿いは新興の商店街となってにぎわいをみせている |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
伝馬町(近世~近代) 江戸期~現在の町名・大字名江戸期は美濃国安八【あんぱち】郡,大垣城下町の1つもとは藤江村・高屋村のうち城下町東北部の町屋地域で,美濃路沿いに位置する天正期に成立したと推定され,古来町の1つ町名は伝馬会所が置かれたことによる(新修大垣市史)町域は慶長5年以前は柳原(現在の中町の北)より実相寺まで,寛永3年実相寺より東へ藤江村境まで市街地となり,次いで同14年高屋村の一部が市街化し伝馬町北町と称した寛政12年の家数288(寺院7),天保13年の家数276・人数936,うち男487享和元年には町内を東西に通る美濃路の長さ3町,橋は1か所,脇道8か所享和2年の地坪7,733坪真宗大谷派開闡寺は慶長期に大垣中町に創建され,真徳寺通所といったが,寛永元年当地に移転安永2年大垣掛所願証寺と改称嘉永5年藩主戸田氏正は東本願寺厳如に申請し,寺号を開闡寺と改め,御坊格とした以後通称を大垣御坊(大垣別院)といい,西美濃における本願寺教団の中核寺院となる真宗順念寺はもと東大寺と号し,万治元年宮町より移建真宗明寂寺は安八郡下宿より移建日蓮宗実相寺は元和2年下総関宿より大垣へ移り,辰之口付近に創建,寛文12年当地に移建真宗本顕寺は寛文11年,歩行【おかち】町より移建(新修大垣市史)明治初年伝馬町北町が分離し岐阜町となる明治4年の戸数117同6年からは大垣伝馬町と称し,同22年からは大垣町の大字,大正7年からは大垣市の町名となる明治33年の戸数55大正14年の地坪8,030坪昭和3年の戸数152・人口730同42年の世帯数117・人口529同51年土地区画整理事業により岐阜町・高橋町・歩行町・藤江町・中町との間に町界変更が行われ現町域が確定... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
伝馬町(近世~近代) 江戸期~昭和42年の町名明治22年頃一時期酒田を冠称江戸期は酒田湊のうちで,酒田町組の1つ明治22年酒田町,昭和8年からは酒田市の町名酒田西部に位置する町名は口碑によると,平泉没落時酒田に落ちのびた三十六人衆の馬を扱う者が住んだからとする説と秋田街道の入口で,駅馬があったことに由来する(飽海郡誌)との説がある慶長17年から明暦2年の間に町割りがなされたといい(同前),明暦2年の酒田町絵図では長さ84間,屋敷33軒が見える天和2年の町割家数人数書上帳(県史17)によれば,家数66軒・人数355元禄9年の亀ケ崎城下大絵図(荘内神社所蔵)によれば長さ80間余,道幅4間余,道の両側に御伝馬1疋役の屋敷が並んでいる御伝馬・往来の用ともに32頭の馬で調えることになっていたが,天和元年には穀物払底で24頭になったと訴えている(大泉紀年)元文4年当町馬持より,駄賃馬とりかえのため馬1頭あたり金1両,計32両の拝借願が出されている(酒田市史史料篇1)明治3年伝馬廃止となったが(県史12),同5年賃馬牡馬32疋(酒田市立光丘図書館蔵,野附家文書)を数え,御馬宿・六尺宿などを業とする者もいた(同前)寛政5年当町からの出火により113軒,宝暦8年当町より出火して,酒田全域で1,479軒を焼失「東講商人鑑」には呉服太物店越前屋善吉・越前屋五四郎の名が見える当町で寺町泉流寺内の馬頭観音を祀る明治3年の総家数並寺院畝数調では家数61軒(同前)同11年の一覧全図によれば,反別1町余,戸数57・人口323昭和40年一部が日吉町2丁目,残余は同42年中町3丁目の一部となる... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
伝馬町(近世~近代) 江戸期~現在の町名明治初年から同22年までは桑名を冠称江戸期は桑名城下の1町城の西南に位置し,街路は南北1条の東海道で,北は新町に接し,南は堀に面す江戸期以前は本願寺村の地内地名の由来は,慶長年間の城下町割に際し伝馬年寄丹羽藤九郎はじめ伝馬持ちの者が屋敷地を与えられたことにちなむ(久波奈名所図会)南端に七曲御門(釘貫門ともいう)と番所があった町割に際して城の外郭地として寺が集められ,浄土宗十念寺,日蓮宗寿量寺,真宗高田派願証寺(のちほかへ移転),浄土真宗本願寺派長円寺・報恩寺が軒を並べた元禄年間の軒数76(元禄家帳/桑名市史)明治8年の地積1町・地価1,022円・地租30円,同16年の戸数87・人口431(桑名市史)明治14年頃,堀の一部を埋め立て公立日進小学校を開設,同校は現在に至る同22年桑名町,昭和12年からは桑名市に所属同20年の戦災で全町が焼失昭和13年の世帯数136,同33年の世帯数102・人口496... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
伝馬町(近世~近代) 江戸期~現在の町名1~2丁目がある江戸期は飯田城下の一町で,町人町明治8年飯田町,昭和12年飯田市飯田の通称町名となり,同27年からは同市の正式町名伝馬宿があり,町名もこれに由来する飯田から江戸への出口に当たるため,文禄3年京極高知の時に名残町が立てられ,正保2年伝馬町と改められた惣堀内に位置し,城下への出入場所に当たるので,枡形が設けられ,木戸・番所も置かれた伝馬役は,1か月のうち上10日を勤め,下20日は桜町が勤めた地子米は免除されていた(飯田万年記)旅人のうち江戸方面へ通う者は伝馬町・桜町に,上方へ通う者は城下各町へ宿泊と決められたので,人通りも多く商売も繁昌した大正12年伊那電気鉄道が開通,隣りの桜町に駅ができたため飯田町の中心部への出入りが多くなり,にぎわった昭和22年飯田大火により全町焼失のち道路の拡張ほか市街の近代化に務めている同61年の世帯数134・人口432... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」