ケータイ辞書JLogosロゴ 中保久村(近世)


愛知県>額田町

江戸期〜明治11年の村名三河国額田【ぬかた】郡のうち古書に「北給」とか「法久」の字をあてているものもあり(岡崎市史),「なかほくむら」とも読ませる(寛永高附)慶長9年村の南の高台に位置する根の集落と合わせて中保久と称した(岡崎市史)乙川支流保久川流域はじめ岡崎藩領,宝暦12年幕府領,明和2年からは岡崎藩領岡崎藩では東山中手永に属す村高は,慶長9年検地高127石余(同前),「寛永高附」214石,「元禄郷帳」127石余,「天保郷帳」「旧高旧領」ともに170石余天保11年の免状によれば,田144石余・畑26石余,小物成は山年貢,居林年貢,車屋井料があり,また竹2束を年々上納した文化14年の家数37・人数182(東山中明細記)明治7年の戸数40・人口146(額田郡誌)額田郡史編纂資料によれば,「文弘年中,今の字海戸田の西方殿屋敷に中山庄成瀬与市郎正綱の居城あり,その地を古宮という」とある成瀬家の鎮守として同城内に白山大権現を祀り,祈願所として金泉寺を置く寛政11年字片坂に白山権現(現白山神社)を移転根にある若宮社は,後醍醐天皇の孫尹良親王の王子崎之宮を祀る崎之宮は乳母知与姫とともに当地に落ちのびたと伝えられる明治11年中伊村の一部となる現在の額田町中伊の通称中伊東と呼ばれている地
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7359534
最終更新日:2009-03-01




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