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「西新町(近世~近代)」の関連ワード⇒ 赤田組(近世) 飯詰組(近世) 石浜村(近世) 

西新町(近世~近代)


①江戸期~昭和51年の町名江戸期は名古屋城下の1町武家町の1つ駿河町から将監屋敷・七曲りの東を通って南へ池田町までの町筋万治3年の大火ののち,のちの蒲焼町辺りに...

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[最終更新日:2009-03-01/JLogosid:7359844]
関連項目: 赤田組(近世) 飯詰組(近世) 石浜村(近世) 

角川日本地名大辞典(旧地名編)

日本地名大辞典に収録されているものの中から、現在以前のものを再編。

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西新町(近世~近代)

江戸期~現在の町名江戸期は加賀国石川郡松任【まつとう】町のうち明治5年石川県に所属同22年松任町,昭和45年からは松任市の町名明暦2年城址外堀の外郭に1町8反3畝20歩,高27石5斗7升6合5勺相当分の土地を拝領地として受け,99軒の町居屋敷を建てて,新町が成立した以来新町の創始を記念して8月14日に草市が立ち,盆の市と称されたが,明治初年には絹市とも呼ばれ,古着を主に扱ったという(松任町史・新松任町史)天明5年の町絵図には,西新町・東新町の2町に区分して記載されている寛政4年の書上げでは,2町合わせて新町通り家数113天保13年寺子屋汲古堂開設,慶応元年には男子190名,女子50名に習字・算術および裁縫を教授したというが,明治5年廃止された(同前)同年松任小学校,翌6年女児小学校を創立同12年,初の松任町会を松任小学校で開催同校は同30年殿町に新築移転女児校も同36年殿町に新築移転明治4年町役所を町会所と改称同12年隣接地に戸長役場が中町より移転され,松任町役場の所在地となる(松任町誌)当町地内で松任市街地の西北端には旧県社松任金剣宮【まつとうきんけんぐう】,一名松任金剣神社がある拝殿を享保3年に建立慶安元年以来,山伏観蔵坊,次いで弥勒院が奉仕したが,明治初年に社僧を廃止(松任町史)文久ごろ,同社に至る中村用水の分流馬場川沿いの道筋を宮川町と称したという寺院には仙竜寺・光明寺があり,ともに真宗大谷派に属す仙竜寺は文化年間,灌頂が当町地内に開基し,明治12年寺号公称を許され,大正6年現在地に移転したこのほか,真宗大谷派の法性坊があり,寛延3年楞厳寺の隠居法性が中町の聖興寺内に創建の後,明和8年西新町に移り,昭和初年ごろには廃寺となったらしい(寺社由来)当町には万延元年以来,町芸妓が置かれ,明治末から大正初めには繁盛したという(松任町史)文久3年の戸数90,明治22年の戸数108・人口494,昭和10年の戸数135・人口487,同29年の戸数199・人口773,明治12年の宅地1町1反6畝21歩,持主55名昭和48年一部を松任市古城町へ編入世帯数・人口は昭和45年160・562,同50年140・473

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

西新町(近世~近代)
江戸期~現在の町名昭和17年からは1~5丁目がある江戸期は徳島城下の町人町の1つで,明治22年からは徳島市の町名となる現在は西船場町と西大工町の間に位置し,東は新町橋筋を挟んで東新町に,西は佐古橋に接続する県内屈指の商業地区で,歴史的に衣料品の問屋が軒を並べている江戸期には,新町川から船場町に続く2筋目の町で,西の眉山側には寺町があり,南は東新町・古物町,北は佐古となっていた「阿波志」によれば,東新町側から「西新街第一坊,名杉屋街,在新街橋西南,第二坊,名三倉屋街,第三坊,名葛籠屋街,第四坊,名鰕屋街」と見え,杉谷町・三倉屋町・葛籠屋町・鰕屋町があったさらに現在の5丁目については「免許街,旧名正通街,天正十三年三木正通自播磨竜野来,実始居此,後寝成坊,坊免丁役,因名免許」と見え免許町・正通町があった三木正通は,蜂須賀氏の城下開発策により,阿波国内から徳島へ移り,南寺島に宅地をもらい居住したが,新町開発策によって同地へ移った「異本阿波志」に「町はつれ故家建申者御座なく候,諸役御免許に被仰付下候,下知仕,家建させ可申よし,益田因幡方申上候所,願の通被仰付,夫より五軒口,三軒口望次第屋敷に遣して取立申候,其時は正通町と申其以後御免許町と申よし正通申候」と見え,江戸初期の城下における町割と,商業地区の建設の模様を伝えている貞享2年の徳島市中町数並家数による当町は,東西5町46間,家数174とあり(民政資料),商家が立ち並んできたことがわかる明治22年の戸数616・人口2,320,財政規模収入700円16銭・支出655円80銭で黒字収支となっている世帯数・人口は,昭和5年424・2,176,同10年431・2,272(自治五十年小史)同17年船場町・大工町・寺町の各一部を編入し,当町の一部は西大工町1~5丁目・新町橋1~2丁目・西船場町1~5丁目・南新町西1丁目となる同39年一部が南佐古1~8番町となる...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

西新町(近世~近代)
江戸期~現在の町名江戸期は津山城下の1町,町人地明治22年津山東町,同33年津山町,昭和4年からは津山市の町名津山城の東に位置する東は東新町,西は中之町,南は吉井川を隔てて八出村,北は上之町に接する「津山誌」によれば,寛永3年,浪人佐々木太郎兵衛の請願によって東新町とともに城下に編入された町名の由来は,林田【はいだ】の新町で,西側に位置したことによる元禄10年城下町図によれば,戸数は65うち持家54・借家11,人数488(男265・女223)町南側の吉井川沿いに雁木が並び,高瀬舟が発着し船宿もあったいわば吉井川の舟運によって発展した町である津山家数役付惣町竪横関貫橋改帳によれば,塩屋・酒屋・桶屋などが多い幕末の洋学者箕作阮甫は少年期を当町で過ごした箕作家は元禄年間から医師で津山藩医,阮甫は4代目で文化5年に戸川町に移転した旧宅が残され昭和50年国文化財に指定された明治初年の戸数101・人口444(津山誌)大正期以後交通の中心が鉄道となり昔のにぎわいは失われ,静かな商店街となった世帯数・人口は,昭和45年105・349,同55年99・309...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

西新町(近世~近代)
江戸期~現在の町名・大字名八尾【やつお】町のうち寛政5年桐山野村旧地に町立てされ,八尾町の1町となる願人は乗嶺屋四郎兵衛同時町立ての東新町とともに新屋敷と通称される慶応4年の家数71・人口323(郡方人別書上帳/県史近世下)明治9年石川県,同16年富山県に所属同22年婦負郡八尾町の現行大字となる明治15年以降字道ケ端に逐年家が建ち,同30年町並みが完成同33年の戸数140・人口656(八尾郷土史談)昭和5年の戸数133・人口666同50年の世帯145・人口545...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

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