ケータイ辞書JLogosロゴ 西郡(中世)


愛知県>蒲郡市

 南北朝期から見える地名。三河国宝飯【ほい】郡のうち。康永4年3月17日の足利尊氏下文案に「参河国西郡内平田村白鬢・沢河・恒吉」を勲功の賞として多度元利房に宛行うと見える(地蔵院文書/岡崎市史6)。平田村を含む宝飯郡西部三河湾沿岸の西田川・落合川流域一帯を西郡と称した。この多度氏知行地はその後沢川の慈恩寺領となり,その管領者足利満詮が応永22年6月3日に正育首座に譲り,永享4年8月17日に正育から中慶上座へと譲られ,慈恩寺は西山地蔵院の末寺となった(同前)。「康正二年造内裏段銭并国役引付」に岩堀修理亮が「三川国西郡中村段銭」400文を納入したことが見える(群書28)。幕府奉公衆岩堀氏一族の知行地が西郡にあった。15世紀後半に鵜殿氏が西郡に勢力を伸ばし,宗家の上ノ郷城を中核として下ノ郷・柏原・不相などに一族が分布した。戦国期には西郡といえばこの鵜殿氏ないし鵜殿氏の支配領域を指すようになる。大永7年に連歌師宗長は深溝【ふこうず】を発って「西の郡,鵜殿三郎宿所,ひるとをり,ゆづけなど有て」伊奈へ至っている(宗長手記)。また連歌師宗牧は天文13年11月,東国へ赴く途中に「西郡」へ立ち寄り,鵜殿長持・玄長らの歓待をうけて23日間も逗留し(東国紀行/群書18),その間11月25日に彼ら国人と「西郡千句」を張行している(天理図書館所蔵)。今川氏の進出によって鵜殿氏はその縁戚となって今川部将の地位を確立したが,義元の死によって事態は大きく変化した。西郡防衛のため永禄4年7月今川氏真は牛久保の牧野成定に西郡への移住を命じたが,牧野氏はこれを拒否した(牧野文書/岡崎市史6)。翌5年2月松平元康はついに西郡に攻め入り,上ノ郷の鵜殿長照を討った。同年6月11日の日扇書状に「就西郡落城,鵜殿藤太郎殿御傷害」とある(長存寺文書/同前)。上ノ郷鵜殿氏没落後は久松佐渡守俊勝が西郡を与えられて入部した。「家忠日記」天正15年3月14日条に俊勝が「西郡」で死去した記事がある。なお,江戸期には,広義では旗本松平清昌知行の11か村(蒲形村・三谷村・牧山村・平田村・五井村・西迫【にしはさま】村・不相村・清田村・坂本村・小江村・水竹村)を総称して西郡領あるいはたんに西郡と呼び,狭義には蒲形村内の旗本松平氏の陣屋・家中屋敷およびその町場を西郡町と称して農村部と区別した。また,この旗本松平氏を西郡松平氏とも呼ぶ。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7359866
最終更新日:2009-03-01




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