ケータイ辞書JLogosロゴ 二宮荘(中世)


愛知県>犬山市

 鎌倉期〜戦国期に見える荘園名。尾張国丹羽郡のうち。摂関家(九条家)領荘園。尾張二宮大県神社とその社領が荘園化したもので,単に二宮ともいう。建保3年8月権大納言藤原宗頼の室兼子が尾張国成海荘と交換して二宮社社務を領掌,その後九条道家の知行するところとなった。建長3年10月には九条道家室倫子が「おハリの二のミや」を粟生姫君に譲与している。永仁5年8月日付御所大番役定書案には「二月 若やまの庄・二のミやの庄・日禰の庄」とあり,当荘は能登国若山荘・和泉国日根荘とともに九条家に2月の番役を勤めている(九条家文書1・5/図書寮叢刊)。室町期の享徳〜長禄年間には,代官織田氏の押妨のため惣荘荘民が逃散,代官は改替されたのちも荘内に手勢を率いて打ち入り,年貢収納を妨げたり,あるいは荘内にこもって領家方と争い死者を出すというように,当荘支配をめぐって領家九条家と地下代官が確執し,これに対する農民の抵抗が続いた(経覚私要鈔享徳2年3月1日・同年4月29日・長禄4年10月23日条など)。文明2年には応仁の乱を避けた九条政基が当荘に下向している(大乗院寺社雑事記文明2年4月11日条)。荘内には二宮社領の本郷があった。文明3年12月の尾張二宮社本郷分散用状,文明4年12月の尾張二宮社本郷方散用状にそれぞれ「二宮本郷分」「二宮郷方」とある。これらの散用状によれば本郷方でも年貢収納に苦心している様子がうかがえ,年貢銭ほか国方・京進物も借物をして賄っていた状態であった。本郷は現在の犬山市の楽田地区の字本郷付近に比定される。天正年間以前に作成されたと推定される九条家領目録案にも「尾州大県社一円 二宮庄」が見えるが,中世後期の在地の動向を鑑みると,九条家の支配力はかなり低下していたと推測されよう(九条家文書1・5/図書寮叢刊)。当荘は現在の犬山市の楽田地区の字二宮を中心とする地域と考えられている。
解説文を自分にメール
メアド:Milana@docomo.ne.jp

(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7359947
最終更新日:2009-03-01




ケータイ辞書 JLogosトップ