ケータイ辞書JLogosロゴ 根崎村(近世)


愛知県>安城市

 江戸期〜明治22年の村名。三河国碧海郡のうち。慶安3年の検地に際して東端村から分村して成立。はじめ相模甘縄藩領,元禄3年からは同藩の分家である旗本松平万次郎知行。村高は,慶安3年検地帳1,028石余(田753石余,畑・屋敷274石余),「元禄郷帳」1,172石余,「天保郷帳」「旧高旧領」ともに1,257石余。甘縄藩の三河飛地を支配する陣屋が置かれたことがある。矢作新【やはぎしん】川開削後40年ほど経った正保元年に米津から当村を経て鷲塚に至る根崎堤が築かれた。油ケ淵廻りの村として水損に悩まされ,寛文2年には年々の水損高400石,満水の節の水損788石と記す(明治村史)。寛文年間と天和2年,本村の東端村との間に水争いを起こしている。元禄13年には両村の境界論から,東端村の田地と当村の山との間に幅5間通りの木を植えない地を設けることになり,翌年絵図面を作成し和談に至ったが,当村にとっては屈辱的なものであった。享保17年には半場川沿いの新田をめぐり城ケ入村と争論が起こる。天明7年には東端・西端両村庄屋の仲裁によって,城ケ入村が10両の金を当村へ出して新田の半分を取得している(同前)。弘化4年より10か年間岡崎宿助郷,文久3年以後は池鯉鮒【ちりゆう】宿助郷の指定を受ける。弘化元年医師氷室養賢が寺子屋を開き,ほかにも鈴木三左衛門の寺子屋があった。地租改正によって田は74町余から119町余,畑は51町余から67町余となった。明治22年市制町村制施行による根崎村となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7359992
最終更新日:2009-03-01




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