ケータイ辞書JLogosロゴ 野寺(中世)


愛知県>安城市

 戦国期に見える地名。三河国碧海郡のうち。竜讃寺阿弥陀如来絵像の延徳3年4月28日付裏書に「野寺本證寺門徒同(志貴)庄米津道場」とあるのをはじめ(西尾市史2),蓮泉寺阿弥陀如来絵像の明応2年裏書(桜井村史),円光寺阿弥陀如来絵像の同6年裏書(同前),増慶寺阿弥陀如来絵像の文亀3年裏書(豊田市史6),浄照寺阿弥陀如来絵像の永正元年裏書(同前)などに「野寺本證寺門徒」と見え,当地の本證寺の門徒が広範囲にいたことが知られる。同寺は寺伝では13世紀初頭に性空(慶円)が開いたといい,はじめ天台宗の寺であったが,高田派系の真宗に改宗,室町末期以後に本願寺派に移って戦国期には同派の三河三か寺の1つに数えられるまでになった。天文18年4月7日付本證寺門徒連判状に「野寺 本多伴七郎信光(花押),同 石川甚六家重(花押)」とある(本證寺文書/岡崎市史6)。弘治2年9月4日付今川義元感状に「去三月,織田上総介荒河江相動之処,於野寺原遂一戦」とある(観泉寺所蔵文書/同前)。天正11年の「永禄一揆由来」によれば,永禄6年の三河一向一揆の蜂起は,守護不入の地である「野寺本證寺中」を借り受けて商売を営んでいた渡村住人鳥居党に対して岡崎の家康家中の者が濫妨を働いたことに起因するといい(勝鬘寺文書/同前),この一揆後,本證寺も破却された。その後,本證寺が復興されるまでには,種々の曲折があったが,刈谷城主水野忠政の娘で,家康を養育した熱心な門徒であった妙春尼の努力や秀吉と一向宗の関係復興の動きもあり,家康は天正13年10月28日付安堵状で「野寺道場屋敷之儀」として,道場屋敷を安堵,家来30間分の諸役を免除している(本證寺文書/同前)。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7360067
最終更新日:2009-03-01




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