ケータイ辞書JLogosロゴ 秦梨子郷(中世)


愛知県>岡崎市

 鎌倉期〜戦国期に見える郷名。三河国額田【ぬかた】郡のうち。弘安4年11月5日の足利家時袖判重円奉書は額田郡公文所にあてて,「秦梨子郷」が不輸の地として当給主に充賜わることを伝えている。嘉元3年8月14日の足利貞氏下文によれば,不輸地秦梨子の具体的な内容は郷司職であり粟生師広が任じられた。粟生氏は下野国出身で,額田郡地頭足利氏の被官となった。粟生師広は正和3年3月28日子息盛広へ「秦梨子郷并梅藪屋敷給田」を譲与し,盛広の子為広は観応2年8月23日に惣領秋広へ「秦梨子郷并梅藪屋敷」を譲っている。秦梨子郷は粟生氏の本領ともいうべき所で,郷支配の拠点は梅藪屋敷にあった。観応元年に額田郡の国人21人が足利直義に味方して起こした一揆の構成員に粟生為広がいる(尊経閣文庫所蔵文書/岡崎市史6)。延徳4年8月13日岡崎城主松平光重とその子親貞は小島大蔵丞の知行地於為平郷を安堵したが,その北の境を「はたなし境水落切」とした(児島好平氏所蔵文書/同前)。鎌倉期以来秦梨子郷の在地領主として生き続けた粟生氏は,戦国期に松平氏・今川氏に圧迫されて急速に衰退した。郷内に2か所粟生氏の城郭がある。江戸期の秦梨村・茅原沢村・友久村に相当する。
解説文を自分にメール
メアド:Milana@docomo.ne.jp

(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7360256
最終更新日:2009-03-01




ケータイ辞書 JLogosトップ