ケータイ辞書JLogosロゴ 拝師郷(中世)


愛知県>一宮市

 鎌倉期〜戦国期に見える郷名。中島郡のうち。弘安5年7月日の尾張国千代氏荘坪付注進状案に「中島郡北条拝師郷」と見える(醍醐寺文書/一宮市史資料編6)。郷内に河田里(一宮市萩原町河田方)・石田里(同林野・大和町北高井)・暗水里(大和町戸塚の北)・古家里(不明)と奈木村(住吉あたりか)が見え,鈴裳・永吉・重枝次郎丸・千騎・四宗・有松名田畠があった。文和3年3月18日僧連祐が報恩(妙興)寺に祖母尼教阿から譲得した拝師脇暗水里内田5反を寄進した(妙興寺文書/同前資料編5)。嘉慶2年8月13日妙興寺領坪付注文に中島正介長利寄進分として「玖段 拝師郷内〈穴田借屋須賀〉」とあり(同前),現一宮市大和町苅安賀も当郷内であった。南北朝期〜室町初期にかけて中島氏一族が同寺に当郷内所領を寄進している。長享元年頃と推定される妙興寺領坪付注文にも当郷内の9反が記されている(同前)。一宮市萩原町林野がその遺称地で,一宮市域の日光川東岸一帯に比定される。但し,林野の地名表記はすでに鎌倉期から見えており,元応2年4月3日中島承念が尾張国大介職を譲渡した際の譲状案に「柒段 林野 宮田里」とある(同前)。文和2年10月妙興寺領坪付注文には中島長利寄進分として「林野前」1町7反が見えるが,応永年間には守護方に押妨されている(同前)。応安2年6月29日沙弥信慶が妙興寺末寺観音寺に一色田栗迫田地1町を寄進した寄進状案写に「在所林野御堂東」とあるが(同前),栗迫は近世林野村栗間であろう。また長禄2年頃妙興寺領坪付注文に中島蔵人并大輔坊寄進分として「林野前〈藪崎〉」と見える(同前)。年未詳同寺領坪付注文には「林野前〈石田里一坪〉」とあるが,石田里は中島郡北条拝師郷内であり,現一宮市大和町北高井の石田が遺称地と思われる(同前)。文明16年11月1日の如光弟子帳に「林野 一箇所同(専称坊)末」と見え,天正19年同末寺帳に馬寄普光寺末寺分として「〈はやしの〉東正坊」とある(上宮寺文書/一宮市史資料編6)。また,永正元年頃と推定される聞法寺蔵阿弥陀如来絵像裏書に「光明寺門徒尾州中島郡林野惣道場物也」と見える(聞法寺史料/同前)。
解説文を自分にメール
メアド:Milana@docomo.ne.jp

(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7360388
最終更新日:2009-03-01




ケータイ辞書 JLogosトップ