ケータイ辞書JLogosロゴ 針崎(中世)


愛知県>岡崎市

 戦国期に見える地名。三河国額田【ぬかた】郡のうち。永禄7年正月28日の深溝【ふこうず】松平伊忠宛松平家康判物写に「自然土呂・針崎其外敵方之者,無事之上申事候共」とあり,前年10月におきた三河一向一揆に蜂屋・筧・渡辺・久世・賀藤・坂部などの門徒武士が勝鬘寺に立てこもって家康に背いた(譜牒余録/岡崎市史6)。勝鬘寺はもと碧海荘赤渋にあり,明応5年に矢作川の洪水を避けて針崎に移転した。真宗三河三か寺の1つで,多数の末寺道場や門徒を組織していた。一揆拠点中では最も岡崎城に近く,家康は北の上和田砦に大久保一党,西の土井城に本多広孝を置いて一揆勢に対向させた。永禄7年1月には土呂・針崎の一揆側と家康軍との間で針崎辺りで激戦があった。和平後勝鬘寺などの一向宗有力寺院は国外へ追放され,天正13年10月28日家康は勝鬘寺に対し「針崎道場屋敷」の再興許可と家来30間の諸役を免許した(勝鬘寺文書/同前)。同17年11月21日の小栗吉忠が奉じた徳川家康七ケ条定書が「針崎」宛に出されている(参州岡崎領古文書/同前)。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7360394
最終更新日:2009-03-01




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