東矢作村(近世)
江戸期〜明治11年の村名三河国碧海郡のうち矢作川右岸宝暦年間に矢作村が東矢作村と西矢作村に分かれたことにより成立したというただし,「天保郷帳」では矢作村1か村として記され,「旧高旧領」で東西2か村に記される岡崎藩領村高は,「旧高旧領」835石余「岡崎藩万書上」では,寛政元年の人数563,馬3「三州岡崎管内記」によれば,川西手永に属し,享和年間の収納定俵1,166俵余,上納竹5束・小竹11束東海道岡崎宿の助郷村寺社は,時宗光明寺・誓願寺,真宗大谷派勝蓮寺・柳堂寺,矢作神社・八剣神社・弥五謄神社明治6年矢作学校創立,同8年の生徒数は男56・女18同11年矢作村の一部となる
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7360553
最終更新日:2009-03-01