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- 日置荘(中世)とは
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![]() | 日置荘(中世) 南北朝期に見える荘園名板西郡のうち「ひきのしょう」と読む説もある(土成町史)天授5年3月21日の長慶天皇綸旨に「阿波国日置庄地頭職所有御寄附熊野山新宮也」とあるのが初見(熊野新宮文書/徴古雑抄2),当荘の地頭職が熊野の新宮に寄進されている平安期の嘉承2年に熊野別当前田中将実方が弟の実房を阿波に派遣し,上板町七条・吉野町西条などに熊野の分霊を安置したと伝え(上板町史),当地は古くから熊野と結び付きがあったと考えられる当荘の鎌倉期の地頭としては,佐々木氏の一族で戦国期の西条城の城主西条壱岐守の祖先を充てる説(上板町史)や上板町引野の無遍仙人伝説と常陸房昌明を結びつけ,承久の乱後昌明に宛行われたとする説(阿府志)などがある南北朝期,正平18年には一宮城が落ち,その後弘和元年にかけて南朝方の山岳武士が次々と北朝方に降り(県史2),また「予陽河野家譜」によれば,正平22年には南朝方の阿波守護と考えられる小笠原頼清が北朝方の細川氏に降るなど,北朝勢力が伸張するなかで,当荘の熊野山新宮による支配は困難であったと推定され,やがて北朝方の支配下に入ったと考えられる現在土成【どなり】町高尾に祀られている熊野神社は,永禄3年,上板町七条・土成町西条・同町五条にあった熊野神社を,宮川内谷川の水害が甚だしいため,七条城主七条兼忠が五条城主高志下野守・西条城主西条監物との合議の上で,現在地に合祀したといわれる(板野郡誌)同社には永仁6年の銘のある神器が伝わり,明治初期まで覚善院・大覚院・白珠院・愛染院・快行院・正覚院の6坊があり,各々に同社の六坊といわれた神主(山伏)がいた(土成町史)なお,高尾安楽寺谷川の安楽寺址からは平安期~鎌倉期の瓦が出土しており,当荘と何らかの関係があった寺と推定され,また土成町高尾にある天治2年の銘のある弥勒大石仏,上板町引野にある治承4年の銘のある石造線彫弥勒像,同町泉谷出土の銅製経筒などは当荘域に熊野信仰とともに弥勒信仰が盛んだったことをうかがわせる(土成町史)現在土成町高尾に残る小字熊ノ庄,同町西条に残る小字庄境などは当荘の名残と考えられ,後者は当荘域の東南部にあり,板西荘や高橋荘との接点と推定される荘域は前記の熊野神社の氏子範囲によると,現在の上板町引野・泉谷・鍛冶屋原・七条,土成町高尾,吉野町西条・五条一帯に比定される(上板町史) |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 日置荘(中世) 平安期~戦国期に見える荘園名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 日置荘(中世) 鎌倉期~室町期に見える荘園名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 日置荘(中世) 鎌倉期に見える荘園名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」